皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

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段祺瑞ー北洋軍閥、政治家

1920年、安直(直皖)戦争に敗れて失脚。その後、1924年には第二次直奉戦争によって、張作霖らの支持で臨時政府執政となるものの、1926年、馮玉祥に追われて下野しました。のちには国民党政府委員を務めるなどしましたが、1936年に病死。72歳でした。

その後は、安徽軍閥の首領として、直隷派・奉天派と争いました。そして外国の支持を得るため親日的な政策をとり、寺内正毅内閣から"西原借款"を受けました。この"西原借款"とは、寺内正毅内閣が当時の中国政府(実際には段祺瑞が指導する北洋軍閥)に与えた貸し出しのことです。借款の内容は現金供与1億4500万円、武器供与3000万円、合計1億7500万円。そして第一次大戦の際は、連合国側に参戦しました。翌年、政治権力争いにより大総統・黎元洪に総理の地位を追われますが、その後、また国務総理に返り咲き。暫定憲法の制定と国会の復活を拒否し、民主派を弾圧しました。   

馮国璋ー北洋軍閥

1916年の袁世凱の死後、勢力は段祺瑞と馮国璋に二分され、段祺瑞と対立する一方の雄、馮国璋が初めて表舞台に立ちました。これ以降、馮国璋が率いる軍隊は直隷派と呼ばれるようになります。1916年10月馮国璋は副総統に選ばれ、1919年、故郷の河北省で60歳で亡くなりました。

1911年10月、辛亥革命が勃発し、華中・華南では革命派優位で情勢が推移しました。清政府は袁世凱を第2代内閣総理大臣、湖広総督に任命するとともに、反乱軍の鎮圧を命じました。しかし、清朝不利を確信していた袁世凱は部下の段祺瑞・馮国璋らを鎮圧に向かわせたものの、自らは動かず、一方では革命派と極秘に連絡を交わしました。こうして1912年3月、最後の皇帝宣統帝が退位して清王朝が滅亡、袁世凱は新生中華民国の臨時大総統に就任しました。   

1899年袁世凱と共に、「義和団運動」を鎮圧しました。1906年、馮国璋はまた一ついい機会に恵まれ、清政府から署正黄旗蒙古副都統兼陸軍貴族学堂の最高責任者に任命されました。  

寥仲ガイー辛亥革命の指導者

1924年から、寥仲ガイは「黄浦軍校」の設立に奔走しました。「黄浦軍校」は中国近代史上初めてとなる、革命のための軍事人材を養成する学校です。1925年5月5日、孫文を総理、蒋介石を校長、そして寥仲ガイが軍事代表を務める「黄浦軍校」が正式に開校し、この三人が学校の最高指導者となりました。その後、寥仲ガイは、この学校の発展に大きく寄与するのです。

 1925年8月、寥仲ガイは国民党の右翼勢力に暗殺されました。48歳でした。

第二次革命後、孫文を含む多くの革命家が再び日本に亡命しました。1914年、孫文は東京で「中華革命党」を結成し、寥仲ガイはこの党の組織を固めるため、全力を挙げ、同時にこの党の財政を担当する副部長となりました。1919年、孫文は「中華革命党」を「国民党」に改称し、『三民主義』を党是と定めました。1923年、孫文がソ連共産党と連携する方針を決め、寥仲ガイは積極的にこうした活動に参与しました。   

その後、親族の助けにより香港の「皇仁書院」で系統的な西洋学の教育を受けました。1897年、香港出身の女性・何香凝と結婚し、「皇仁書院」卒業後、1903年に日本の早稲田大学経済学部に留学。ここで革命思想の影響を受けて、中国留学生によるロシア反対運動に参加しました。

章太炎ー中国近代史上の哲学者、国学者、社会学者

1902年社会学の先駆者である章太炎は日本の社会学学者・本能武太の著作「社会学」を中国語に翻訳し、これは中国で翻訳出版した最初の社会学著作です。この訳本と彼の考え方は社会学が中国での広がりに対して大きな役割を果たしました。1935年章太炎は蘇州で「章氏国学講習会」を開き、古代文学の研究に没頭でした。彼は特に「春秋」という経学に興味を示し、10年かけてそれを研究し続けていたということです。彼の一生には「古文尚書拾遺」、「春秋左伝読叙録」、「春秋左氏義問題」、「劉子政左氏説」、「太炎文録」など多くの著作を書き、後世に編纂したのは『章氏叢書』などがあります。1936年蘇州で亡くなり、67歳でした。

 今、浙江省の杭州では彼を記念する「章太炎博物館」があり、彼の原稿や写真などが展示され、資料が一番そろっているところです。

馮友蘭ー哲学家

「彼は正確かつ素朴、総合的に中国の伝統的な哲学思想を解明した中国哲学史上,大きな功績を残した"集大成者"である。西洋の現代ロジックと理性主義で中国の伝統的哲学を改造し、中国哲学史という領域を創設し、「新理学」という新しい体系を確立した。彼は中国哲学とは何たるかを人々に知ってもらうと共に、中国の伝統哲学を現代的に発展させる方向性と方法論を示した。彼の研究成果は後世の学者が中国の伝統的な哲学を理解する上での基礎を築き、また、外国の人々に中国の哲学や文化を理解してもらうことに、大きく寄与した」

去年、北京大学、中国社会科学院、清華大学などの共催で「馮友蘭生誕110周年記念及び馮友蘭国際学術シンポジウム」が北京で開かれました。出席者は彼の近現代学術史上における地位について、次のように評価しています。  

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