皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

スポンサー

栄禄

栄禄は1852年16歳の若さで官職につき、以後は内務府大臣、公部尚書、総理各国事務大臣などを経て、甲午戦争(日清戦争)中は歩軍統領となり軍務に参与しました。戊戌政変の開始直後に直隷総督兼北洋大臣として、北洋三軍を統率、袁世凱の密告を受けてクーデターを実行した。政変後は軍機大臣となり北洋海陸各軍を節制,また正規軍の整備統一と軍備充実をはかり、自ら軍を率いて南苑に赴任しました。光緒帝の廃立問題にも深く関与していました。義和団事件に際しては平和的解決をはかり、しばしば鎮圧を要請しました。8ヶ国連合軍の北京攻略後には、留京弁事大臣となり事後処理にあたり,のち西安に移ってからは政務大臣として新政に参与しました。1902年帰京後,太子大保・文華殿大学士を加えられましたが,翌年で病死し、67歳でした。

李鴻章は清の末期の政治家

1896年には「中俄密約」(露清密約)を結び,ロシア勢力の満州進出を許した。義和団事変(19世紀末,植民地化の危機に直面した中国の華北諸省でおこった反帝国主義的な大衆運動)では露清密約を結び,ロシア勢力の満州進出を許した。義和団事変では全権を委任され列強との交渉に当たり,辛丑(しんちゅう)条約を締結,まもなく病死し、78歳であった。

左宗棠 さそうとう

1864年、新疆地区ではホイ族やウィグル族などの少数民族による蜂起が起きました。1875年左宗棠は新疆の軍務を担当する欽差大臣に任命されました。1877年にはヤクブベクを指導者とする回教徒の反乱の鎮圧に成功しました。とろろが、 新彊への進出を企図するロシアは、居留民保護を口実にイリ地方を占領し、反乱平定後もそのまま居座りました。 これに対し、左宗棠は武力解決を主張しましたが、いれられず、北京へ召還されました。 のちに清仏戦争が起こり、欽差大臣として福建へ派遣されました。だが、彼の創設した南洋海軍はフランス軍の攻撃にあい壊滅。1885年、敗戦の報を受けてまもなく、失意のうちに病没しました。

左宗棠はまた、洋務派官僚の一人として名が知られています。彼は福州の「福州船政局」(馬尾造船所)を創設し、軍備の近代化につとめていました。「福州船政局」は中国近代史で最大の造船企業として、長い期間全国工業科学技術の発展に大きな影響を及ぼしました。また、造船所は安い燃料を必要とするため、台湾の基隆炭鉱が開発され、これは中国が初めて機械を使って採掘した炭鉱となりました。また、台湾近代工業のはじまりだと見られています。

袁世凱ー軍閥政治家

1912年、革命側との交渉で、清朝が滅亡すると、孫文の跡を継いで中華民国の第2代臨時大総統に就きました。その地位を元に独裁権力を確立すると、宋教仁を暗殺し、さらに各地の反袁蜂起(第2次革命)を鎮圧して、正式な初代大総統に就きました。

 第1次世界大戦には中立を宣言しましたが、日本の対華21ヶ条要求を受諾。1916年元旦に自ら皇帝の地位に就き、年号を洪憲元年と改元、国号を中華帝国と改めました。

 しかし、雲南省をきっかけに各地で武装蜂起が起こり、列国も帝位を支持しなかったため、3ヶ月で帝位を取り消すに至ります。それからわずか3ヶ月後の6月6日孤立した中で急死、57歳でした。

1901年、直隷総督兼北洋大臣の地位に就き内政の改革に努めました。1908年に戊戌変法失敗の時の怨恨から一旦政界を追われますが、辛亥革命が勃発すると、復帰し革命勢力と交戦しました。

黄興ー辛亥革命の指導者

同盟会の発足後、黄興は広州、雲南各地での蜂起を数回も指導しましたが、そのうち最大規模のものが「黄花崗蜂起」です。この蜂起では72人が死亡し、「黄花岡72烈士」と呼ばれ、今でも、その記念碑が広東省の中心地・広州にあります。1911年10月に武昌蜂起が勃発し、黄興は戦時総司令官に就任、1912年に南京臨時政府の成立とともに、陸軍総長となり、政府の北遷後は南京留守府の長官となります。第2次革命では江蘇討袁軍の総司令となりましたが失敗して、日本に逃れました。亡命後は孫文と意見が合わず,孫文の中華革命党に加入せず、新しい革命勢力の育成につとめ、資金の調達と宣伝活動のためアメリカに渡っていました。第三次革命では孫文に呼応し、袁世凱の死後は上海に戻りましたが、1906年10月、42歳で病死しました。

1905年、日本の友人宮崎寅蔵の紹介により東京で孫文と初対面。二人は統一した革命組織を創設すべきだという点で見解の一致を見たあと、1905年の8月東京で「中国同盟会」が発足させました。  

Pages

スポンサー