皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

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感觉身体被掏空

感觉身体被掏空(gǎnjué shēntǐ bèi tāokōng)

 もともとは上海レインボー室内合唱団が歌った曲のタイトルで、作詞作曲をした金承志さんが友人からのメッセージからインスピレーションを得て作ったという。

 「感觉身体被掏空」で体が空っぽになった感じ、元気を出し尽くされたように感じることを表す。忙しすぎて力がぬける、仕事の忙しさで全ての力を使い切ってしまう感じ。

 最近は学生でも勉強が忙しすぎたり、就職のプレッシャーで、この言葉を使ったりする。

第6課後半-その時中国にもタンカーはあったのでしょう。

その時中国にもタンカーはあったのでしょう。

 那时,中国也有油船了吗? 

 ありましたが大部分は外国籍です。

    有,不过,大部分是外国的。

 では、単語と言葉を説明します。

 一つ目:タンカー。「油船」の「油」は第2声、「船」は第2声です。

 二つ目:ほとんど。「大部分」の「大」は第4声、「部」は第4声、「分」は軽声です。

 次は「キーポイントをマスターしよう」のコーナーです。今日は「大部分」のことについて、お話します。「大部分」は大部分、ほとんどという意味です。例えば、

 この飲み物は大部分の女性に喜ばれています。

    大部分的女性都很喜欢这种饮料。

 この百円ショップで売っている商品はほとんど中国製です。

    这家百元店卖的商品,大部分都是中国造的。

 では、テキストの例文を読んでみて下さい。

 今日大部分の市民がデモに参加しました。

    今天,大部分市民都参加了游行。

 日本の家屋は大部分が木造です。

    日本的房屋大部分都是木结构的。

掩耳盗铃

掩耳盗铃(yǎněrdàolíng) えんじとうれい

 意味

 耳を覆って鈴を盗む。自己欺瞞の行為を風刺する。

 由来

 「呂氏春秋」に由来する。

 ある泥棒が1つの大きな鐘を盗もうとした。だが、鐘は大きくて重いため、背負っていくのは無理である。これを砕いたら持っていくのに便利だろうと思った泥棒は、かなづちで鐘を叩いてみた。すると、鐘が大きな音で鳴り響いた。泥棒はびっくりして、誰か他の人に聞かれたら鐘がその人に奪われるのではないかと思い自分の耳を塞いだ。もちろん、ほかの人には聞こえている。

 後に、盗もうとする鐘が鈴になって、自己欺瞞、愚かな行為を言う。

 使い方

 环境监测岂能掩耳盗铃。

 環境モニタリングでは耳を覆って鈴を盗むようなことを許してはいけない。

 删除行贿号码不过是掩耳盗铃。

 贈賄の電話番号を削除することは、耳を覆って鈴を盗むことに過ぎない。

洪荒之力

洪荒之力(hónghuāngzhīlì)

 「洪荒」は混沌未開の状態であること。「之」はの、「力」は力。

 地球形成の早期は混沌状態にあり、地殻がまだ薄く、地震が頻発し、気温も高く、造山運動によって大洪水がたくさん起きたと言われている。

 この造山運動を繰り返した結果、地球上の大気圏が形成され、地殻も安定した。「洪荒之力」というのは、この地球創生期のような中に秘められた原始的な巨大な力(エネルギー)だという意味。

 この言葉はリオ・オリンピック期間中に話題になった。女子100メートル背泳ぎの傅園慧選手は予選後に記者から成績を聞いて、「こんなに速かったの」と驚いた顔をして、また、記者からの決勝戦のために調整をしたのでは、という質問に「我已经用了洪荒之力了!(全力を尽くした)」と答えた。この素直でユーモラスな答えが反響を呼び、「洪荒之力」という言葉が流行りだした。   

陳独秀ー思想家、中国共産党の創設者

陳独秀(1879ー1942)は安徽省懐寧県の出身で、思想家、中国共産党の創設者です。23歳の時、反清朝宣伝を行ったことで日本に亡命しました。東京高等師範学校、早稲田大学などで学んだことがあります。1906年、同盟会会員となり、帰国後、上海や安慶(現在の安徽省にある)などで口語の新聞を発行し、辛亥革命にも参加しましたが、反袁世凱闘争の最中、再度日本へ亡命しました。

国に戻った後、1915年上海で「青年雑誌」(翌年「新青年」と改称)を創刊し、「新青年」の発刊のことば《敬告青年》の中で、「民主」と「科学」のスローガンを掲げ、これらを汽船の両輪に例えました。彼は儒教批判・文学革命を説き「新文化運動」の旗手となり,青年学生に大きな影響を与えました。1917年初め、陳独秀は北京大学文科学長に就任し、編集部もこれに伴って北京に移り、さらに組織も改造、拡大されました。そのメンバーは、陳独秀、胡適、李大釗、魯迅、銭玄同、劉半農、周作人、沈尹黙、呉虞、高一涵、沈兼士らです。

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