皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

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万事具備

準備万端という意味です。

 中国語では、もちろん、「万事具備」を単独で使うこともできますが、一番よく使われる形は、"万事具備、只欠東風"です。準備は完了したが、必要な条件がただ一つ満たされていないという意味です。これは日本でも数多くのファンがいる『三国志』から出た名句です。今でも、日常会話の中でよく使われています。

 この言葉は『三国志』の中でも最大の見せ場ともいえる「赤壁の戦い」から来たのです。中国後漢末期の208年、長江の赤壁で起こった曹操軍と孫権・劉備連合軍の間の戦いです。歴史と一致しないところがありますが、羅貫中が書いた『三国志演義』バージョンをご紹介しましょう。

 208年、曹操は83万人の軍を率いて、長江の中流にある赤壁に駐屯し、蜀の劉備を打ち負かした後、さらに、呉の孫権をも侵攻しようとしています。蜀と呉は同盟を結び共同で曹操に抵抗します。蜀と呉の兵力は少なく、両軍をあわせた連合軍も、魏に及びません。

「○○千金」の構造の四字熟語

「一攫千金」、日本語でも使う四字熟語ですね。中国では、昔から、「千金」は大変価値あるものを表す言葉として、色々な場面で使われます。もちろん、四字熟語になっているものがたくさんあります。

 「一刻千金」という言葉があります。時間の貴重なことの例えです。これは蘇軾の詩、「春宵一刻値千金」から来ています。春の夜のすばらしさは一刻が千金にも値するという意味でしたが、今はよく新婚の夫婦が過ごした初めての夜のことを表します。蘇軾が描いた元の意味より、少し俗っぽくなりましたね。

 もうひとつご紹介しましょう。「一字千金(いちじせんきん)」。大変優れた文字や文章のことを言います。秦の始皇帝の宰相、呂不韋(りょふい)にまつわる故事があります。ご紹介します。

 商人から秦の宰相となった呂不韋は、自分の名声を高めるため、食客3000人を集め、26巻の20万字あまりからなる『呂氏春秋(りょししゅんじゅう)』という書物を完成させました。これは春秋戦国時代の各思想流派の説を集めた一種の百科全書です。

「千○万○」の構造の四字熟語

「千」や「万」を含む四字熟語、例えば、日本語にも使われる言葉、「千差万別」。どんなことでも、ものでも、それぞれ違いがあって、一つとして同じものはないということです。

 一つの言葉に、「千」と「万」、どちらも入っています。中国語でも同じです。"qian cha wan bie"と発音します。「千」や「万」はいずれも大きな数字ですので、数が多いことを表します。「千差万別」のほか、中国語には、千〇万〇の構造の四字熟語はたくさんあります。

 例えば、「千言万語」。非常に多くの言葉を表します。「千山万水」。たくさんの山や川。山や川が続くこと。または、旅路の長くて険しいことを形容します。それから、「千辛万苦」。様々な辛いこと、苦労、困難を経験したことを意味するんです。

百尺竿頭

中国語では、よく"百尺竿頭、更進一歩"、「百尺竿頭に一歩を進む」という形で使われます。百尺の竿の先に達していますが、なおその上に一歩を進もうとします。すでに努力・工夫を尽くしたうえに、さらに尽力することのたとえです。これはある程度の成果を収めた人を激励することに、もってこいの言葉ですね。

 実は、これはもともと禅の教えでした。宋の時代に、長沙に景岑(けいしん)という高徳の僧侶がいました。ある日、仏法に関する答弁会で、景岑は、「百尺竿頭に到達し、そこに止まってしまった人は、まだ真の悟りの境地に入っていない。百尺竿頭の先から更に一歩を進めて、十方世界(じっぽうせかい)、つまり全世界で自在に自己を実現できる」と言いました。

 仏教は悟りを求めて、修行を重ねる訳ですから、つまり、仏法の修行には頂点がないということですね。いくら努力した結果てっぺんに行き着いたとしても、「これでいい」と、満足してはいけません。何かの奥義を極めるには、更に努力しなければなりません。

百発百中

昔、楚の国に、養由基という弓の名人がいました。柳の木から百歩ぐらい離れたところに立って矢を射ると、百発百中で柳の葉の中心を射ることができます。周りの人は皆彼を褒め称えました。

 ところが、通りかかった一人が、「このぐらいで褒められるなら、私は彼に矢の射方を教えられる」と言いました。

 それを聞いて、養由基は気になって、「皆は私が上手だと言っているのに、あなたはこの私に、矢の射方を教えられるなんて言っている。それなら、私の変わりに柳の葉を射るのはどうかな?」と言いました。

 その人は、「私は左腕をまっすぐにして弓を持ち、右腕を曲げて弓を引き、矢を射るなど、技量を教えることはできない。しかし、あなたは、考えたことがあるか?今まで百発百中で柳の葉を射続けてきたが、息を整えることがうまくできていない。後になって疲れて、一発でも当たらなくなれば、これまでの百発百中の成果が無駄になってしまう」と話しました。

 「百発百中」、言葉の意味自体はとてもお見事なものですが、この故事の中では、何かを戒めているです。故事の出典は『戦国策』です。策士、蘇厲(それい)が白起(はっき)将軍の攻撃を阻止するために、この百発百中の故事を引用したのです。

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