皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

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【放水养鱼】(fàngshǔi yǎngyú)[成](減税によるマネーの還流を水に、魚を企業に喩えて)水を入れて魚を飼う;現金を還流して企業を育てる.

直訳すると、容器に水を入れて魚を飼うという意味ですが、これは最近、政府が企業の活性化を目指す税制改革を喩えるためによく用いられる表現です。

 第13期全人代第1回会議で発表された『政府活動報告』で、減税や税制改革に言及した部分はなんと18ヵ所もあります。これは歴代の政府活動報告の中でも史上最多を数えるものです。この政策は、主として製造業、交通運輸業、中小企業や零細企業と給与所得者の税負担を軽減することによって、実体経済のモデルチェンジとアップグレードを促し、更に起業を推奨して、国民生活を改善することを目指したものです。

 この報告が発表された頃、8000億元減税、という数字が最近のニュースの見出しに踊っていましたが、これだけの水(栄養)が注がれたら、魚も元気になるはずですね。他にも、今回の両会議期間中、国家税務総局(署)の王軍局長が取材陣に3枚の図を公開したのですが、そこにも、企業の利益増加の一部が減税によるものだということが如実に現れています。

 ネットの記事には、こんな評論のタイトルもあります。

【五险一金】[固・略]中国式社保;五種類の保険と一種類の積立金.

雇用者が被雇用者側に与えるべき社会保障待遇の総称で、中には養老保険、医療保険、失業保険、労災保険(工伤)、生育保険、そして住宅積立金が含まれます。

 日本の社保で考えると、医療保険(中国では医疗保险)、年金保険(中国では养老保险)、介護保険(中国では养老保险)、雇用保険(中国では失业保险)、労災保険(中国では工伤保险)がそれにあたります。中国の「生育保险」のカバー範囲は、日本だと健康保険や雇用保険がカバーしていることになります。

 「五险一金」にある養老保険、医療保険、失業保険と住宅積立金は、雇用者と被雇用者双方が、被雇用者の給与を基準とする一定の割合の金額を収めます。一方、労災保険と生育保険は雇用者負担になっています。また、2016年3月23日に公布された「第十三次五ヵ年計画要綱」では、生育保険を基本医療保険と合併すると明記されていますので、今後、これは「四险一金」という形にまとまることになるかもしれません。

 初期のくくり方では「三险一金」と呼ばれていましたが、2004年に労災保険、2006年に生育保険が実施されたことで、これらを合わせて「五险一金」と呼ぶことになったわけです。これを一部の地方や企業で現在もまだ「三险一金」と呼んでいるのは、労災保険と生育保険が全部雇用者負担だからです。

【普惠金融事业部】(puhui jinrong shiye bu)[名]<金>インクルーシブ・ファイナンス事業部.

「普惠金融」はインクルーシブ・ファイナンス(後述参照)、「事业部」の方は字面通り事業部の意味です。単語の順序を逆にした「金融普惠」は金融包摂、ファイナンシャル・インクルージョンの意味を表します。ここでは、「普惠金融事业部」として、銀行のインクルーシブ・ファイナンス業務を担当する部門を表します。

 この「普惠金融」インクルーシブ・ファイナンスは、国連が2005年に提起した概念で、金融サービス需要のある社会の各階層や人々に向けて、適切かつ必要とされるレベルでの金融サービスを低コストで提供するというもので、中小企業、零細企業、農家、都市部の低所得層などを主なターゲットにしています。

 この「金融普惠」の概念は、貧困を撲滅し、社会の公平の実現を目指す、つまりは貧困層の人々が経済的な疎外を受けることを無くそうというもので、単に金銭でケアするような活動とはまた違い、全員を巻き込みながら(インクルードしながら)、社会全体の発展を図ることを考えるというものです。そうした層にマネーを流すことで、貧困問題の解決を狙いつつ、更に全国の金融システム自体の活性化が図られることを狙った動きと考えることもできるでしょう。

炎黄芸術館

炎帝と黄帝、古代中国には伝説上の二人の有名な皇帝がいたそうです。民族の祖先です。この二人の名前を縮めて「炎黄」。仲間うちで、「やっぱり中国人だ」「中国人は一番さ」といったニュアンスの時に使われるようです。日本でいうなら「我こそは日本男児」というところでしょうか。先日、人民日報に中国国際人材交流基金が主催する「炎黄賞」の受賞者が決まった、という記事がありました。「炎黄」はいまの中国で脈々と生きているのです。

 今回の「博物館めぐり」は、炎黄芸術館を訪ねましょう。北京の北、第四環状道路の安慧橋からアジア大会選手村(亜運村)の方へ、北へ300メートルほど進んだところにあります。唐宋の時代の雰囲気を持つこぢんまりとした建物です。

 それもそのはず、この芸術館は人民芸術家といわれた画家・黄冑が個人で作り上げた美術館です。館長は夫人の鄭聞慧さんです。鄭さんによれば、最初は、「華夏」とか「東方」とかいろいろ候補にあがりましたが、本人の名前も黄、そして中国人に親しみを与える炎をとり、いまの名称になりました。

 さて、黄冑さんはどんな画家だったのでしょう。1925年河北省の生まれ。鄭さんや家族によると、ロバをはじめ動物の絵を好み、水墨画の技法で人物画を描くのを得意としました。五四運動で破壊された中国画の伝統を復活させた功労者でもあります。

北京宣南文化博物館

北京の中心部に入るには、いくつかの門をくぐらねばなりませんでした。東直門、西直門など多くの門は、いま、地下鉄2号線の駅名となって、その名残りを留めています。地下鉄2号線は、北京駅から時計回りで行けば、前門、復興門、雍和宮などを回って戻ってくる環状線です。乗り間違いの心配はないので、北京観光の折には、ぜひ試してみるといいでしょう。

 さて、その宣武門のあった南の地域は、宣南と呼ばれ、古くから文化人や学者、そして京劇の俳優が住み、また商業の中心としても栄えました。故宮の一帯が皇帝やお役人の世界だったとすれば、宣南は庶民文化が花開いたところでもあったのです。

 その歴史が一目で分かるところが、北京宣南文化博物館です。もともとは、長椿寺というお寺でした

 お寺ができたのは1592年、明の時代です。時の皇帝は、長寿と健康を祈って、「長椿寺」という名前を贈ったそうです。そういえば、椿はなかなか枯れることがなく、いつまでも青々としていて、日本でも長生きのシンボルになっています。回族がたくさん住む牛街に通じる道は長椿街ですが、この名前もお寺から来ています。

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