皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

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破鏡重円

四字成語"破鏡重円"(はきょうじゅうえん)は、引き裂かれた夫婦が再び結ばれることを意味します。

 中国の南北朝時代、陳の国の皇女、楽昌皇女が、才能豊かで名が知られる徐徳言と結婚しました。夫婦二人、とても睦まじく暮らしていました。

 やがて、陳の国は衰退し、北朝の隋によって滅ぼされるのが明らかになってきます。戦乱によって、離れ離れになることを案じた皇女は、毎日お化粧の時に使う銅製の鏡を割って、片方を夫に渡し、もう片方を自分が持つことにし、約束しました。毎年の旧暦1月15日、即ち、元宵節の日に、隋の都であった長安、つまり現在の西安の町で、鏡を売りだすふりをし、鏡を互いの再会の証として、相手と再会するまで探していくと。

 まもなく陳は隋によって滅ぼされ、皇女は隋の大臣、楊素の側室となりました。翌年の1月15日、徐徳言ははるばる長安に駆けつけました。市場では片方の鏡を高値で売っている年老いた下僕がいました。徐徳言は懐から自分が持っていた半分の鏡を出して、それに合わせると、確かにぴったり合うのです。

 しかし、探していた妻はいません。すると、徐徳言はその場で詩を書きました。「鏡は人と共に去り、鏡は帰ったものの人は帰らない。鏡にはもう皇女の姿が写らず、ただ空しく月の光が残っている。」

曹操は元の妻に嫌がられました

曹操の第一夫人は丁夫人です。最初に結婚した女性です。

 この夫人は子息に恵まれませんでした。曹操の妾で、曹昂を含めて、3人の子供を生んで、若くして亡くなってしまった人がいます。この亡くなった女性の3人の子供を、曹操はこの丁夫人にあげました。丁夫人はとても心の優しい人で、3人の子供を実の子供のように可愛がっていました。

 自分の子供として可愛がった曹昂が亡くなって、丁夫人が一番悲しみました。心が痛むと同時に、夫の曹操を恨みました。「この好色男め、張繍に叛乱させ、曹昂を死なせた!」と、いつもいつも曹操の鼻に指差して罵倒しました。

 曹操も反論できません。でも、いつも罵られるから、さすがの曹操もとうとう我慢の限界になり、丁夫人を実家に送り返しました。2人で冷静になろう、とは言っても、実家に送り返すなんて、ちょっとひどいですね。

 その後、曹操は後悔し、何度も迎えに行きましたが、「もう帰りたくない」と、きっぱり断られました。

 曹操はの人と再婚してもいいと、丁夫人を許しましたが、残念なことに、やがて、丁夫人は病気で実家でなくなりました。

曹操の評価

正史「三国志」の作者、陳寿は曹操の策略や、権謀、法体系の確立、人材登用などの業績を称えた後、このようにまとめています。「非常の人、時代を超える傑出した人」。

 なかなか高い評価ですね。これは後世の歴史学者による評価ですけれど、曹操自身も何度も当時の人物鑑定家に評価してもらったことがあります。

 橋玄の人物鑑定はとても有名なので、若い頃の曹操は橋玄のもとを訪れました。橋玄は「天下はまさに乱れんとしている。一世を風靡する才能がなければ、救済できぬであろう。よく乱世を鎮められるのは、君であろうか。」と言いました。

黄粱一夢

「黄粱一夢」。字面の意味は、粟のご飯を炊いている間に見た短い夢です。面白い物語が伝わっていますので、ご紹介します。

唐の時代に、盧という貧乏な書生がいました。いつも自分に運が回って来て、財産や地位のすべて手に入れることを夢見ていました。試験を受けるために上京する途中、大雨に遭ったので、旅館に入り、呂翁 という名の道士に合い、意気投合しました。

 盧生は自分の貧乏な暮らしを語りながら、いささか悲しくなっているようです。すると、呂翁は陶磁器の枕を出して、「これを使って寝なさい。あなたの夢を叶えてあげるよ!」と言いました。

 盧生は半信半疑で、枕に頭を乗せて寝ました。そのとき、店主は二人のために粟のご飯を炊こうと、粟の粒を鍋にかけたところです。

 盧生は寝ると、自分はなんだか大きくてきれいな家に入りました。そして、脳裏ではそこが自分の家だと認識しています。数ヵ月後、彼は金持ちの美しい娘と結婚し、ますます多くの財産を持つようになっています。またしばらくすると、 盧生は都に行って科挙試験を受験し、一挙クリアし、かなり高い官職を手に入れました。その後、その官職はどんどん高くなり、宰相まで勤めるようになりました。

滄海一粟

"滄海一粟"(そうかいのいちぞく)。海の中の一粒の粟。広大なものの中のきわめて小さいものという意味で使われます。転じて、宇宙における人間の存在のはかないことのたとえです。 その出典は蘇軾の詩、「前赤壁賦」です。

 蘇軾は、中国の宋の時代の有名な文学者です。もう一人の有名な文学者であり、政治家でもある王安石の変法に反対したため、現在の湖北省にある黄州に左遷されました。黄州では、蘇軾は2本の「赤壁賦」を書き上げました。「前赤壁賦」では、蘇軾は "寄蜉蝣于天地,渺沧海之一粟。"と詠みました。

 蘇軾は三国志のゆかりの地、赤壁・レッドクリフを訪ね、長江を眺めながら色々思ったんでしょう。「今日、私たちは赤壁を訪ねているが、昔、曹操は奇抜なヒーローだった。今、ヒーローはどこにいるのか?私たちは魚や海老、鹿などと一緒に、まるでカゲロウと同じように天地を彷徨い、広々とした海の中の一粒の粟のようだ。長江の水は尽きがないが、我々の一生はどんなに短いものだろう。」と嘆いたでしょうね。

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