中国語講座

皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

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新入門編は初めて中国語を学ぶ方やもう一度基本からはじめたい方へ、応用編は中国文化をより深く理解し中国語を身につけたい方へ、役立つ内容をめざしています。

廬山の瀑布を望む

作者、李白は盛唐の詩人。杜甫と並び称され、日本でもよく知られています。四川の人で出身地から青蓮居士(せいれんこじ)の号があります。62歳で病のために没しますが、一説には、酒に酔って船に乗っていた時、水に映る月を捕ろうとして、溺死したとも言われています。生き方と共に作品も天衣無縫でスケールの大きさを感じさせるものが多くあります。今日紹介した詩も目の前の景色をダイナミックに詩にしています。「日は香炉を照らし」、の香炉は廬山の中の香炉峰のこと。白居易の「香炉峰の雪は簾をかかげてみる」でもお馴染みかと思います。そして、清少納言の枕草子にも登場します。峰から立ち上る霧が、香炉から香の煙が立ち上っているように見えることから、この名前が付いたようです。滝の水が三千尺、1尺は30センチですから900メートルに渡って落ちる、これはもちろん実際の長さと言うより、それだけ凄いスケールだということです。李白らしさが表れている1句でもありますね。想像しただけでも涼しくなれそうです。百聞は一見にしかず。やはり実物をみてみたいですね。

紫の藤の樹

作者、李白は盛唐の詩人。豪放に生き、一説によると酒に酔って湖に映る月を捉えようとして湖に落ちて溺死したとも言われています。私はこんな風に聞き、李白は酒好きの無粋なおじさんというイメージを持っていた時期がありました。でも、いろいろ彼の作品を調べていったら、こんな藤の花を詠った詩もあります。私にとって藤は初夏の花ですが、この詩では「陽春」、春のようです。詩の中で鳥を隠してしまうほど葉が茂っているようですから、やはり初夏かなとも思います。花の咲く時期は地域や年によっても違うのでしょう。紫の藤の花が雲のような大きな木にかかっている。花が咲くではなく掛かっているというところが、藤の花の特徴をよく捉えています。密葉は密に生い茂った葉のこと。歌鳥は囀る鳥のことですが、確かに鳥の囀りは歌に例えられることが多いですね。香風、芳しい風ですが、藤の花の香りがふんわりと漂っていると言うことでしょう。そんな藤の香りは美しい人でさえ、思わず足を止めてしまうと言っています。月こそありませんが、まさに花鳥風月。目の前に情景が浮かび、香りも漂ってきそうな詩です。

納涼

作者、秦観は北宋の詩人。江蘇省の人。蘇東玻の有名な4人の門下生の1人です。

暦の上で処暑も過ぎ、北京では朝晩などだいぶひんやりしてきましたが、広い中国まだ残暑の厳しいところも多いようです。熱帯夜という言葉に縁のない北京ですが、南の方はそういう訳にはいきません。エアコンなどの無かった昔は、夜涼みに散策にでかけたのでしょう。柳外、柳の並木の向こう側。画橋は欄干に意匠を凝らした彫刻のある橋の事。胡牀は横になることができるくらいの長い椅子のようなもの。そこにもたれて休んでいると、目には月明かりが映り、耳には船の汽笛が聞こえ、鼻には蓮の花の香りが漂ってくる。風が止んでも、涼やかな雰囲気が漂います。まさに五感で涼を求める感じです。この詩を聞いて目に浮かぶのは、蒸し暑い夏の夜ではなく、美しい夏の夜です。

秋来 李賀

作者、李賀は中唐の詩人。役人としては下級で失意のうちにわずか27歳の若さで他界してしまいます。今日紹介した詩でもわかるように今までの詩とはだいぶ雰囲気が違います。幻想的で色を意識した詩を多く作り死後は「鬼才」と称せられました。好き嫌いの分かれる作風かもしれません。日本では、芥川龍之介がこの李賀のファンだったと言います。この詩は「桐風心を驚かし」で始まっていますが、前回も取り上げた「秋来ぬと 目にはさやかにみえねども風の音にぞ驚かれぬる」と同じですね。秋の訪れは、日本も中国も吹く風によって知り、秋が来たことで誰もがなんだか寂しくなるようです。絡緯はキリギリスの一種。寒素は白い布のことですが冷たい感じの月光を形容ています。青簡は書物のこと、花蟲は紙魚、本の虫ですね。

鮑家は六朝の詩人、鮑照のことを言っています。白、青、血の赤、碧玉の緑と色彩あふれるのも李賀の詩の特徴がよく表れています。私がユニークに思ったのは、「腸応に直なるべし」寂しいむなしい思いを腸が伸びて死んでしまうという部分です。断腸の思いというのは聞いたことがありますが、腸が伸びるという発想は確かに「天才」ではなく「鬼才」と呼ばれるのにふさわしいと思います。

王倫に贈る

作者、李白は盛唐の詩人。唐の文化の爛熟期に生まれています。豪放に生き、酒が好きだったといわれているせいでしょうか、日本では「李白」と言う名前をつけたバーや酒屋さんも珍しくありません。今日紹介した作品は、李白が55歳の時のものです。たくさんの詩を残した李白は、友人を見送る詩も多く有ります。私は、この時期の「煙花三月 揚州に下る」の「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」が好きです。だいたいは、李白が友人を見送る詩ですが、この詩は珍しく逆で、李白が見送られる側になっています。タイトルの王倫は、安徽省涇県(あんきしょうけいけん)の桃花潭の村人でしばしば李白に酒をもてなした人です。踏歌は、手をつないで足を踏みならしてうたう歌のこと。李白の出発に際して、村人たちも見送りに来たのでしょう。「桃花潭水」の桃花潭は、安徽省涇県にある渕の名です。実際は曲がりくねっていて、とても深さが千尺もあるようには見えませんが、そこは李白の詩の世界。千尺と言う言葉が、とてもふさわしく感じます。そもそもこれは、この渕の深さであり、二人の友情の深さです。この村で、李白は人気者だったのでしょうね。

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