中国語成語・空城の計
Submitted by whenis on 星期日, 08/23/2009 - 08:01中国では、諸葛孔明の名は誰もが知っている。もし誰かを公明に喩えたとすれば、その人の知恵を讃えているのだ。次は諸葛孔明に関する故事である。
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中日成語・ことわざ
中国では、諸葛孔明の名は誰もが知っている。もし誰かを公明に喩えたとすれば、その人の知恵を讃えているのだ。次は諸葛孔明に関する故事である。
紀元前三世紀の頃は、中国では魏、蜀、呉の三国時代であり、魏は北方を占め、蜀は西南方を占め、南方は呉に占められていた。あるとき、長江の南にある呉を攻めるため、魏は大軍を繰り出し水路からせめて来た。やがて、魏の軍隊は呉に近い地点まで突き進み、河辺で陣営を置き、その後進軍する機会をうかがい始めた。
中国語成語・中国物語
呉の元帥である周瑜は、魏の軍隊を探察させた後、弓で敵を防ごうと考えた。しかしそれにはどうしても十万本もの矢を短期間内に作り出さなければならない。どうするか?当時呉の能力からみて、それには少なくとも十日はかかるのだか、守備側の呉にとっては、十日は長すぎるのだ。
紀元前四世紀の中国は、諸侯たちが割拠する「戦国時代」と呼ばれている。この時代に魏の国で仕官している孫臏は、同僚である厖涓に迫害されたあと、斉の使臣に助けられ、斉の国都へとやってきた。
そして斉の使臣が彼を斉の大将軍である田忌に紹介したので、田忌が孫臏に兵法をたずねると、孫臏は三日三晩続けて兵法を説いたので、田忌は心から感服し、孫臏を貴賓としてもてなし、また孫臏も田忌に感激して知恵や計策を献じていた。
競馬は当時の斉の貴族の間で最も人気のある娯楽である。国王から大臣までがよく競馬を楽しみ、大金をはたいて賭け事をする。田忌もよく国王や他の大臣とこれに加わったが、これまで負けてばかりいた。この日も彼は負けたので家に帰ってからも不機嫌な顔をしていた。これを見た孫臏は「次回は私もお供しましょう、もしかしたら何かお役にたてるかもしれませんぞ」と田忌を慰めた。
そして次に競馬が行われたとき、孫臏は田忌について馬場に向かい、文武諸官たちと多くの庶民も見物にきていた。競馬のルールとは馬の速さに基づき、上、中、下の三つの等級分け、ことなる等級の馬はそれぞれ異なった飾りをつけ、また賭けに参加した者の馬は、自分の考に基づき、それぞれ競走に出る馬の順を決め、三試合のうち二勝すれば勝ちとなるというものだった。
中国の後漢時代、都の洛陽付近の地区ではよく地震が起こった。史書によれば、西暦89年から140年までの五十数年間に、この一帯で起きた地震は三十三回にも上り、中でも119年に起きた二回の大地震の被害範囲は十数の県にも及び、多くの建物は倒壊し、人と家畜が死傷したことから、人々は地震を大きく恐れるようになった。当時の皇帝は、地震が起こるのは、神を怒らせてしまったせいだと思い、より多くの税金を庶民に課して、それを天を拝む行事に注ぎ込んでいた。当時、張衡という科学者がいて、天文、暦法、そして数学にも長けていた。彼は地震に関する迷信を信じず、地震は自然現象であり、人間にはそれに関する知識があまりにもなさ過ぎるとこから、彼は地震の研究に力を入れた。
張衡は地震が起きる度にそれを細かく観察し記録し、科学的方法で地震発生の原因を突き止め、長年にわたって実験を繰り返した末、西暦132年に、つい恐らく中国だけでなく世界でも最初の地震を予報する機械を作り出し、これを「地動儀」と名付けた。
金はいつも光り輝くもので、中国の「毛遂の自薦」という成語は、次の故事のことをいう。
古代の戦国時代、趙の国の都邯鄲は強大な秦の軍隊に包囲され、危険にさらされていた。そこで
邯鄲を救うため、趙の王は楚の国と連合して秦に立ち向かう策を立て、楚を説得するため、親王である平原君を遣ることにした。
こちら平原君は早速自分の食客の中から知勇兼備の士20人を選び、同行させようとしたが、19人は選べたものの、あと一人足りない。と、このとき、食客の一人毛遂が、同行を申し出た。
「私に何の用事だ?」
「私は毛遂というもの。ご主人が邯鄲を救うため楚に遊説に行かれると聞きましたので、ご同行しようと思いました」
「その方はここに来てどのくらいになる?」
「三年ですな」
「三年といえば短くはない。いいかね、優れた人材というものは錐みたいなもので、袋の中に入れておいても、それを突き破って先が勝手に飛び出してくるのだ。しかし、その方はここの三年もいるのに、優れた才能があるとは聞いておらん。私が楚に行くのは国を救う重荷を背負っているのじゃ。才能なきものが行っても始まらん。ここに残っておれ」
平原君は正直に言い聞かせたつもりだが、当の毛遂は自信ありげに答えた。