中国茶の歴史

皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

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中国茶の歴史

馬寅初ー近代中国の教育家、経済学者

新中国成立後、中央人民政府委員兼政務院財政委員会の副主任委員、華東軍政委員会の副主席、浙江大学、北京大学の学長、中国科学院哲学社会科学部の委員を歴任。50年代、計画出産政策を実施し、人口の素質の高めるのを中心とする「新人口論」と総合的かつ比率均衡で経済を発展させる理論を発表して、批判されました。そして、1960年、北京大学学長を辞めました。1979年に、名誉が回復され、北京大学名誉学長、中国人口学会名誉会長となりました。主な著作は「馬寅初講演集」、「馬寅初経済論文集」、「経済学概論」、「戦時経済論文集」、「新人口論」などです。

1916年以降は、北京大学の教授、教務長を歴任。「五・四運動」に参加しました。

その後、浙江振興銀行や中国銀行の顧問を兼任。1927年、浙江省政府委員、国民党政府立法院委員、立法院経済委員会委員長、財政委員会委員長、中央大学、交通大学教授となりました。抗日戦争期間中、重慶大学教授兼商学院の院長を担当し、国民党の経済政策を批判したことで監禁されました。抗日戦争の勝利後、中華商工専門学校の教師として、愛国の民主運動に参加しました。 

蔡元培 中国近代の民主革命家、教育家、科学者

蔡元培は20世紀初期の中国資本主義教育制度の創設者です。彼は国民教育や実利主義教育を急務とし、道徳教育を中心とする資産階級の新しい教育体制を初歩的に作りました。北京大学の学長を担任した期間、学術の自由や「科学と民主」を主張しました。

郭沫若は中国近代の詩人、歴史学者、劇作家、古文字学者

1928年から日本に住み、中国古代史と古文字学の研究に打ち込みつつ、若者達の日本留学と中国文芸界の革命文学活動を積極的に支持。抗日戦争勃発後は中国に帰り、"抗日救亡運動"に加わりました。中国共産党の指導の下で《救亡日報》を編集し、その間、軍事委員会政治部第三庁長、文化工作委員会主任を歴任しました。そして国民党統治区の進歩文化人と団結して、抗日宣伝工作を展開しました。この時期、多くの史劇と詩を著し、国民党統治の暗黒面を明るみにして、人民を励ましました。

抗日戦争勝利後は、民主運動の最前線に立ち、国民党と真っ向から対立する闘争へと進みました。1948年東北解放区に赴き、その後、1949年2月に北京へ。

新中国建国後、継続して著作に従事し、多くの詩、歴史、考古著作を発表しました。同時に政府や科学文化教育、国際交流等において、指導的立場を担い、中央人民政府委員、政務院副総理兼文化教育委員会主任、中国科学院院長、中国科学院哲学社会科学部主任、歴史研究所第一所所長、中国科技大学校長等の職を歴任。さらに、中共九,十、十一期中央委員、第一期から第五期までの全国人大副委員長、第二,三,五期全国政協副主席に選ばれました。

茅盾は中国近代の作家、文芸理論家及び文学翻訳者

1928年、日本に亡命。1930年、帰国したあと、上海で左翼作家連盟に加入しました。1933年に代表作『子夜』(真夜中)を発表しました。長編小説《子夜》(真夜中)の発表は茅盾の文学創作が新しい段階を迎えたことを意味します。また、この小説はわが国の近代的文学史上、傑出したリアリズム文学だとされています。この時期、彼は短篇小説の代表作、《林家舗子》や《春蚕》などを発表しました。

抗日戦争中は、香港・ウルムチ・延安・重慶・桂林等を転々。1941年『霜葉は二月の花に似て紅なり』を発表。

1949年中華人民共和国建国後、文化部長、作家協会主席、『人民文学』初代編集長を務めました。1965年部長職を退き、文化大革命中は蟄居。1981年北京で病死しました。

1920年、『小説月報』の編集を引き継ぎ、西欧近代文学の翻訳に尽力。また、鄭振鐸ら12人と共に、北京で「文学研究会」を創設し、リアリズム文学を書くよう提唱しました。1921年、「小説月報」の編集長となり、文学創作は現実な人生を描くべきだと主張しました。

兪平伯は中国古典文学の研究者であると共に、詩人、作家

新中国成立後、北京大学の教授を務めつつ、北京大学、中国科学院哲学社会科学部(今の中国社会科学院)文学研究所の一級研究員、全国文学連合会会員、中国作家協会理事、第1期から第3期全国人民代表大会会の代表、第5期から第7期までの全国政治協商会議の委員などの肩書きを持ちました。

兪平伯はまた、中国白話詩の先駆者の一人で、詩集「冬夜」、「古槐書屋間」、散文集「燕知草」、「雑拌児」、「紅楼夢辧」などを著しました。1990年10月に亡くなりました。91歳でした。

兪平伯はまた「紅楼夢」を研究する「新紅学」流派の代表的な人物として名が知られています。彼は1920年、イギリスに留学した際、中国の古典小説「紅楼夢」に興味を示し、研究し始めました。1922年の夏、17編からなる「紅楼夢辧」を書き上げ、1923年に上海亜東図書館から出版されました。この本で、兪平伯は「紅楼夢」の前半80回は曹雪芹が書いたものだが、後半の40回は高顎が書き加えたものだということを明らかにしました。これで、「紅楼夢」研究が新たな段階に進みました。

兪平伯(1900ー1990)は中国古典文学の研究者であると共に、詩人、作家でもあります。

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