皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

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乾陵の無字碑

 中国西部の陜西省渭河の北にある乾陵は、中国の2000年以上にわたる封建的歴史の中で、唯一つの、二人の帝王が、それも夫婦である皇帝が共に埋葬された陵墓である。則天武后は中国史上唯一の女性皇帝であり、伝奇的生涯を送った彼女の死後、この陵墓の前に巨大ながを建てられたが、文字は書き入れられてないので、「無字碑」と呼ばれている。そして、乾陵はいま世界文化遺産リストにその名を並べるため申請が行なわれているのだ。

 則天武后は西暦624年に生まれ、14歳で王宮に召され、唐代二代目の皇帝である太宗帝の妾妃となったが、彼女は早くからその気丈な性格を表していた。当時、太宗帝は、一頭の誰もが馴らせない荒馬をもっていたが、彼女は「鉄の鞭と匕首で、私が馴らしてみましょう。まず鉄の鞭で馬を叩き、それでも言うこと聞かなければ、頭を叩くのです。それでも駄目ならば、最後は匕首で喉元を掻き切るのです」と言い出した。これに太宗帝は驚き、礼儀を守るべきで妃が言うべきことではないと思ったが、なんと皇太子の李治が自分より4つ年上の女性に恋心をもったのである。

瀋陽故宮の物語

  中国東北部にある瀋陽の故宮は、中国で現存する皇室宮殿の中で、その規模と保存状況が北京の故宮に次ぐ宮殿である。世界的に知られる北京の故宮との違いは、瀋陽の故宮は満州族の皇帝が建てたものであることから、独特の歴史的意義と深い民族色で人々を魅了している。

 瀋陽故宮は、中国東北部の遼寧省の省都瀋陽の昔の城内区の中心にあり、清代(1616~1911)の最初の王宮であり、独特な歴史性をもつ。17世紀に、中国北部の遊牧民族であった満州族が後金政権を確立し、後金の皇帝であるヌルハチが瀋陽を帝都にして王宮を建て、その息子であるホンタイジ(皇太極)が皇帝の座を継いだあと、後金の国号を「清」に変え、宮殿の建設を完成させ、それが瀋陽故宮となったのである。清の最初の皇帝ホンタイジとその息子福臨は瀋陽の故宮で即位した。のちに、清は中原に進出し明朝を打ち破り、中国の新しい中央政権となり、都も北京へと移し、清朝の皇帝も北京の故宮に住み着いた。瀋陽は清政府の副首都となり、瀋陽の故宮も「副都宮殿」と呼ばれるようになった。

山西の懸空寺

  周知の通り、一般の寺は平地に建てられるが、中国北部の山西省には崖に建てられた寺があり、それが有名な懸空寺だ。懸空寺は山西省北部の大同市付近にあり。1400年前に建立されたもので、中国に一つだけ残った仏教、道教と儒教を一体化した独特の寺である。この寺は元は“玄空閣”といい、“玄”とは中国の道教の教理からでたもので、“空”は仏教の教理からきており、のちに懸空寺と改名され、寺全体が断崖に引っかかっているとうであること、また、この状態を表す“懸”と“玄”は中国語では同音であることから、この名が付いたという。

 中国の多くの建築の中で、懸空寺は非常に不思議な建築である。この寺は峡谷の小さな盆地内にあり、両側は100m以上もある絶壁で、懸空寺は崖にへばりつくように空中に引っかかっており、地上50mの地点にある。遠くから見ると、重なる殿閣を10数本の細い木が下から支えているのが見え、寺の上には大きな岩が突き出ていて、あたかも落ちてくるように見え、観光客をびくびくさせる。この懸空寺には大小40の部屋があり。楼閣は桟道でつながれ、観光客は桟道を渡るとき、落ちるのを恐れておもわず息を殺し忍び足になるが、ギシギシという音がしても懸空寺は決して落ち崩れない。

ポダラ宮の物語

  神秘な青海チベット高原に、世界で海抜が一番高く、規模が最大の宮殿式建築群がある。それは雄大で壮観なチベット仏教の宮殿式建築―ポタラ宮だ。

 ポタラ宮は西暦7世紀に、吐蕃のソンツェン・ガンポが唐の文成王女を嫁に迎えるため建てたもので、“プトロ”、或いは“プト”と訳し、元は観音菩薩が住む島とされたので、“第二の普陀羅山”とも呼ばれている。ポタラ宮はラサのポタラ山に建てられ、海抜は3700m。敷地面積は36万mで、紅宮を中央に白宮がその前に左右に向けて建造され、紅と白が混じる数層の非常に壮観な建築群である。

応県の木塔

 中国各地には一万に上る仏塔がある。中国仏教の源はインドにあるが、中国仏教の建築様式は中国の伝統的楼閣の建築特徴を取り入れ、色々な名塔が生まれた。

中国北部の山西省にある仏宮寺の釈迦塔は、通称、山西応県の木塔と呼ばれている。この塔は1056年の遼の時代から建造が始まり140年後に完了した。この木造の塔には高さ4mの土台の上に70m近くの塔が建てられ、底部の直径は30m、塔全体は3000mものチョウセンマツが使われ、重さは約3000トン。

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