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皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

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古陶文明博物館

路東之さんは1962年、北京生まれの画家です。幅広い活動をしている芸術家といってもいいでしょう。学生時代には数多くの美術展に出品して入賞したほか、ルポルタージュも手がけ、中国作家協会のメンバーにもなっています。その路さんが、運営しているのが古陶文明博物館です。北京の古い町並みが残る宣武区右安門内西街にある小さな博物館です。

 ここに展示されているのは、新石器時代から秦、漢の時代にかけての泥細工、瓦(かわら)、陶器です。収蔵品は3000点。このうち、2000点ぐらいが並んでいるそうです。初期のかわらには鳥や動物の姿がかたどられていますが、やがて、太陽や宇宙を連想させる模様も登場します。こうした模様は権力者の象徴、つまり、権力者の家でなければ、かわらは使えなかった、ということでしょう。  

 陶器は、水や酒を入れる容器、食器など生活用品に使われました。その後は、門の扉の部分やお墓にも利用されるようになりました。展示されている一つ一つを見ながらホールを歩いていくと、はるか昔の庶民の生活ぶりがしのばれます。

 他の人が感じられないことをやっていくのが、芸術家の役割であり、仕事だと路東之さんは言います。そして、この博物館は、来年、開館10周年を迎えます。

博物館巡りーー北京宣南文化博物館

北京の中心部に入るには、いくつかの門をくぐらねばなりませんでした。東直門、西直門など多くの門は、いま、地下鉄2号線の駅名となって、その名残りを留めています。地下鉄2号線は、北京駅から時計回りで行けば、前門、復興門、雍和宮などを回って戻ってくる環状線です。乗り間違いの心配はないので、北京観光の折には、ぜひ試してみるといいでしょう。

 さて、その宣武門のあった南の地域は、宣南と呼ばれ、古くから文化人や学者、そして京劇の俳優が住み、また商業の中心としても栄えました。故宮の一帯が皇帝やお役人の世界だったとすれば、宣南は庶民文化が花開いたところでもあったのです。

 その歴史が一目で分かるところが、北京宣南文化博物館です。もともとは、長椿寺というお寺でした。

 お寺ができたのは1592年、明の時代です。時の皇帝は、長寿と健康を祈って、「長椿寺」という名前を贈ったそうです。そういえば、椿はなかなか枯れることがなく、いつまでも青々としていて、日本でも長生きのシンボルになっています。回族がたくさん住む牛街に通じる道は長椿街ですが、この名前もお寺から来ています。

秦の始皇帝陵と兵馬俑(四)

前回も少し触れましたけど、兵馬俑博物館の一号館、二号館と三号館は発掘された時間の前後によって名づけられたのです。その規模と役割はそれぞれ違います。規模といえば、一号坑の規模は一番大きく、二号坑は一号に次ぎ、三号は最も小さいです。兵馬俑は始皇帝の都を守備した警備軍を模して作られたもので、この三つの坑の役割分担ももちろん違うのです。1号坑は右軍、2号坑は左軍、そして、3号坑は指揮部となっているそうです。

 兵馬俑軍団の編成について、兵馬俑博物館の李乃夫総工程師は「左軍と右軍は均整のとれた配置ではなくて、軍隊の種類にしたがって並べてあります。例えば、右軍、すなわち、一号坑には主に歩兵と馬車を扱う車兵ですが、二号坑には歩兵や車兵それに騎兵などを主としています。一号には騎兵は見つかりませんでした。また、三号坑は警備の隊列で構成されていて、二人が向かい合って立っていて、真ん中は人を迎える道となり、まるで、警備部隊のようです。」と語りました。

秦の始皇帝陵と兵馬俑(三)

秦の始皇帝は生前中国を統一した偉大な皇帝です。死後にも、生前に持っていた物をすべて地下に持ち込み、これまでにない豪華な陵墓を建てました。60平方キロに及ぶ始皇帝の冥土は、始皇帝がいた都ー咸陽を真似して作られたのですが、内の城壁、内城と外の城壁、外城もあり、域内にはたくさんの副葬坑があります。これまで、本当の意味の考古発掘は行われていませんけど、実験的な探測によって、すでに大きな発見がありました。

 兵馬俑は地下におよそ2000体ぐらい埋葬されたあと、前世紀の1974年にやっと発見されたそうです。実は「やっと発見した」という言い方は正しくないかもしれません。昔もきっと発見したことがあったのでしょうが、ただ発掘をしなかったといったほうが正しいでしょう。兵馬俑を発掘した際に、漢の時代から近世までの貴族や庶民のお墓も、その範囲内に見つかったそうですので、きっと昔にも兵馬俑を掘り出した人がいるかもしれません。

秦の始皇帝陵と兵馬俑(二)

秦の始皇帝陵の地下宮殿のレイアウトと埋蔵状況などに関しては、史書でたくさんの記載が残っています。漢の時代の歴史学者ーー司馬遷は『史記』の中で 、「穿三泉,下铜而致椁,宫观百官,奇器异怪徙藏满之。以水银为百川江河大海,机相灌输。上具天文,下具地理,以人鱼膏为烛,度不灭者久之」 と書いてあります。この古文の意味を日本語に訳してみますと、「秦の始皇帝の陵墓は、非常に地下深く掘られています。まず、溶かした銅の液で床を埋めた後、棺おけを置きます。地下宮殿には、文武百官の席を設けただけではなく、数え切れないほどの宝物を所蔵しています。また、盗掘を防止するため、宮殿の門に矢などの防止用の道具が設置されています。さらに、陵墓内で水銀による海や川を作り、機械の力でそれを流動させるようにしており、お墓の吹き抜けには太陽や月、星などを飾り、地下には実物を真似した山水やお城や村などの風景も見られます。そして、所々に人魚の油で火を点した(ともした)蝋燭があり、これらの蝋燭は長く点しても消えません。」ということです。

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