中国茶の歴史

皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

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中国茶の歴史

陳三立ー詩人

1936年、国際ペンクラブの総会がイギリスのロンドンで開かれ、中国代表も招請を受けました。中国政府は新文学の代表・胡適と旧文学の代表・陳三立の2人を派遣しましたが、陳三立はその年、既に84歳。健康上の理由で、結局、出席することが出来なくなりました。

 1937年、「芦溝橋事変」が勃発。抗日戦争が全面的に始まりました。陳三立は日本侵略軍に妥協しない姿勢を見せ、絶食を実行。その5日後、亡くなりました。

「戊戍政変」失敗の後、陳三立とその父、陳宝箴が維新派として辞任させられました。その後、陳宝箴は西太后から自害を命ぜられました。父親の死は陳三立にとって大きな打撃となりました。そして彼はそれ以降、政治に対して大きく失望し、仏教や詩の世界に傾倒するようになりました。1924年、インドの詩人・「タゴール」が上海を訪問した時、わざわざ陳三立を訪ねました。アジアにある二つの古い文明国の詩人が杭州で会い、互いに詩集を贈り合い、ともに記念写真を取りました。

呉昌碩ー芸術家

29歳の時、彼は芸術の探求のため、故郷を離れ、杭州や蘇州、上海などを回りました。最初の2年は詩人・兪曲園について文字学や修辞学を学びました。その後、蘇州で著名な書道家・楊藐翁について、書道の研究に励みました。同時に、彼は任伯年、張子祥ら芸術界の名高い人たちや収蔵家の呉平斎、?盦らと交流を重ねることで、視野が広がり、学術教養も大いに高まり、芸術的な表現力も進歩していきました。

 呉昌碩は詩や書道、絵画、篆刻いずれにも精通する芸術家です。そのうち、絵画が最も有名で、また書道に最も造詣が深かったといわれています。また、詩は書道と絵画の上達を促し、篆刻は書道と絵画の延長線上にありました。この四者はそれぞれ独立して存在するのではなく、互いに補完しあい、密接な関係を持ちながら、芸術家・呉昌碩が完成されていくのです。

劉大白ー中国近代の著名な詩人

劉大白は青年時代、積極的に清王朝や袁世凱に反対する革命活動に参加した同盟会のメンバーでもあります。1910年前後、紹興で同盟会会員である王世裕とともに「紹興公報」を編集。また辛亥革命後に「禹城新聞」を編集しました。袁世凱に反対する「第二次革命」活動に参加したことで、指名手配され、日本に亡命しました。東京滞在中も同盟会に加入しました。

 袁世凱が亡くなった後、南洋から帰国し、1924年柳亜子氏をはじめとする「新南社」に参加。同年、「文学研究会」上海支部に加入しました。そして1924年2月末、邵力子の推薦で上海復旦大学の教授となりました。その後、上海大学の招きで、中国文学の教授を兼任しました。1928年1月、復旦大学をやめ、国立浙江大学の事務長に就任。さらに1929年8月15日、蒋夢麟教育相の要請により、教育省の事務次官となりました。1929年12月15日に教育省事務次官の仕事をやめた劉大白は、1931年から家に閉じこもり、創作に専念。1932年2月、杭州で亡くなりました。53歳でした。

徐志摩ー詩人

1927年上海光華大学、大夏大学及び南京中央大学で教鞭を執り、同年、胡適、梁実秋らと新月書店を創設、月刊『新月』の編集長となりました。(これが「新月派」という名称の由来)主なメンバーは胡適、徐志摩、梁実秋、陳源であり、その多くは『現代評論』派のメンバーでもありました。政治的には公然と共産党に反対し、革命に反対したとされています。文学的には、ブルジョア的人間性論をたたえ、プロレタリア革命文学を批判しました。

 1931年、南京から北平(今の北京)へ向う途中、飛行機事故で亡くなりました。36歳でした。

1918年渡米、クラーク大学で歴史学と銀行学を、そしてコロンビア大学で政治学を学びました。1920年9月に、コロンビア大学修士号を取得した後、イギリスに行き、ロンドン大学で政治経済を学び、そこで一人の若い女性、林徽音に出会いました。この17歳の少女は元北洋政府の司法総長・林長民の娘で 、その清楚な美しさと感受性豊かな心に、徐志摩はたちまち夢中になってしまいました。

胡適ー中国現代の文学史家・思想家

文学革命の指導者として活躍するかたわら、学者としても信奉するプラグマティズムの方法を学問の各分野に応用し、史学・哲学・文学・民俗学などで先駆者的な役割を果たしました。1918年には「建設的文学革命論」を書いて「国語の文学・文学の国語」を主張し、言語・文字・文体改革の理論を展開しました。このような思考方法は1954年以降の胡適思想批判運動のなかで、「内容が形式を決定する」のを本末転倒して、「形式が内容を決定する」ものとして非難されました。「五四運動」以降は李大釗らの左派と対立し、「国故整理運動」に精力を傾けました。

 その後、彼は文学運動から身を引いて、1920年『水滸伝考証』を、1921年『紅楼夢考証』を、1928年『白話文学史』等の実証的な研究を世に問いました。

 しかし、1930年代以降は儒教批判の批判精神も薄れ、次第に国民党の文化政策の代弁者としての色彩が濃厚になり、1938年には駐米大使、1942年には行政院最高政治顧問、1946年には北京大学学長となりました。最後に、台湾中央研究院院長・国民政府総統府資政の職をつとめた後、この世を去りました。72歳でした。

胡適(1891ー1962)中国現代の文学史家・思想家。安徽省績渓県生まれ。

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