皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

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がま、竜を弄る

  中国の後漢時代、都の洛陽付近の地区ではよく地震が起こった。史書によれば、西暦89年から140年までの五十数年間に、この一帯で起きた地震は三十三回にも上り、中でも119年に起きた二回の大地震の被害範囲は十数の県にも及び、多くの建物は倒壊し、人と家畜が死傷したことから、人々は地震を大きく恐れるようになった。当時の皇帝は、地震が起こるのは、神を怒らせてしまったせいだと思い、より多くの税金を庶民に課して、それを天を拝む行事に注ぎ込んでいた。当時、張衡という科学者がいて、天文、暦法、そして数学にも長けていた。彼は地震に関する迷信を信じず、地震は自然現象であり、人間にはそれに関する知識があまりにもなさ過ぎるとこから、彼は地震の研究に力を入れた。

 張衡は地震が起きる度にそれを細かく観察し記録し、科学的方法で地震発生の原因を突き止め、長年にわたって実験を繰り返した末、西暦132年に、つい恐らく中国だけでなく世界でも最初の地震を予報する機械を作り出し、これを「地動儀」と名付けた。

毛遂の自薦

 金はいつも光り輝くもので、中国の「毛遂の自薦」という成語は、次の故事のことをいう。

 古代の戦国時代、趙の国の都邯鄲は強大な秦の軍隊に包囲され、危険にさらされていた。そこで

 邯鄲を救うため、趙の王は楚の国と連合して秦に立ち向かう策を立て、楚を説得するため、親王である平原君を遣ることにした。

 こちら平原君は早速自分の食客の中から知勇兼備の士20人を選び、同行させようとしたが、19人は選べたものの、あと一人足りない。と、このとき、食客の一人毛遂が、同行を申し出た。

 「私に何の用事だ?」

 「私は毛遂というもの。ご主人が邯鄲を救うため楚に遊説に行かれると聞きましたので、ご同行しようと思いました」

 「その方はここに来てどのくらいになる?」

 「三年ですな」

 「三年といえば短くはない。いいかね、優れた人材というものは錐みたいなもので、袋の中に入れておいても、それを突き破って先が勝手に飛び出してくるのだ。しかし、その方はここの三年もいるのに、優れた才能があるとは聞いておらん。私が楚に行くのは国を救う重荷を背負っているのじゃ。才能なきものが行っても始まらん。ここに残っておれ」

平原君は正直に言い聞かせたつもりだが、当の毛遂は自信ありげに答えた。

嫦娥、月にのぼる・中国の物語

  中国では旧暦の八月十五日が中秋節であり、中秋節は春節(旧正月)、端午節と共に、歴史が最も長く、民族の特色を最も有する伝統的な三大祭日とされている。中秋の日は、家族全員が集まり、月餅や果物を食べながら、月を観賞する風習がある。次は中秋節に関する“嫦娥が月にのぼる”というお話である。

 嫦娥は月の神で、夫の後羿は勇敢で戦に長けている戦いの神であり、狙ったものには必ず的中するほどの弓の腕をもつ。当時、人間世界には多くの猛禽や猛獣が現れ、人々に災いをもたらしていた。これを知った天帝は、これらの害を取り除くよう後羿に命じた。そこで後羿は、美しい妻の嫦娥を連れて人間世界に来た。後羿は剛胆であり強いことから、地上の多くの獣に簡単に打ち勝つことができた。こうして天帝から与えられた任務は完成しかと思われたとき、予想せぬ事態が発生した。つまり空に十個の太陽が同時に現れたのだ。実はこの十個の太陽はいずれも天帝の息子であり、これら息子は、いたずらするため同時に空に現れたので、強い日差しを受けた大地の温度はあっという間に上昇し、森林や畑は燃え、川が枯れ、人々の焼け死んだあとの屍がいたるところに見られた。

五斗の米のために腰を折らない

陶淵明は中国古代の著名な文学者であり、彼は、その詩文は非常に有名であるばかりか、権力や富を軽視し、権勢に決して迎合しないことでもよく知られている。

 陶淵明が生まれたのは西暦365年。彼は中国では最初といえる田園詩人である。彼の生きた時代は、政権が更迭し、社会は不安定で、人々は苦しい生活に苛まれていた。西暦405年、陶淵明は家族を養うため、家から程近い彭澤県で県令になった。ある冬、上司が一人の監視官が派遣してきたが、この監視官は下品な上傲慢で、彭澤県に来ると、すぐ自分に拝見するよう彼に命じた。

 これを知った陶淵明は、このような上官の名を盾に人間をひどく軽蔑したが、仕事の関係から仕方なくこの監視官に会う準備をした。そこで彼の秘書は「あの監視官は些細なことでも過酷な要求を出す人間ですぞ。あなたさまも、ちゃんとした服を着て、謙遜な態度で臨んでください。でないと、あの監視官は上司にあなたの悪口をいうかもしれませんよ!」と忠告した。人柄のまっすぐな陶淵明はこれを聞いて我慢しきれず、「わたしは死んでも、だた五斗の米の扶持のために、あんな人間には頭を下げたくない!」と言い、すぐに辞表を書き、八十日あまり前になったばかりの県令の職を去り、それからは一度も仕官をすることはなかった。

「百歩楊を穿つ」・中国の物語

 中国古代の戦国時代には、多くの諸侯国が並存していた。各国には有名な人物がいて、これら人物にまつわる物語もまた今でも広く伝わっている。

 秦の国の将軍である白起は、戦には非常に長けていた。彼が指揮を取った戦いは負けたことがないので、かれは人々に「常勝将軍」と呼ばれていた。ある年、秦の国王は白起に兵を率いさせ魏の国攻略に向かうよう命じた。しかし、もし魏の国が秦の国に落とされれば、他の多くの国まで連鎖反応が起こりかねないので、人々はこれに強い不安を覚えた。

 蘇厲という策士いて、魏の国を攻めないよう白起を説得するよう命じられた、そこで蘇厲は何とかして白起に会ってから、次のような故事を彼に聞かせたという。

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