「轅は南で轍は北」・中国の物語

皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

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 紀元前五世紀から三世紀にかけては、中国では戦国時代である。当時の中国には多くの諸侯国があり、戦争が続いているので、各国には国王に知恵を出す大勢の策士がいた。その策士たちは国王に策を献じるときは、実例を挙げた意味深い喩えを用いて、己の主張を聞き入れさせることが多い。「轅は南で轍は北」の成語も、魏の大臣である季梁が魏王に策を献じたときのことを描いている。

 戦国時代では、実力のある諸侯国たちはそれぞれ天下統一を目指す。その中で魏の国王も天下をとるべく、先に趙の首都である邯鄲を攻め落とし、趙を従属下に置こうと考えた。ちょうどこのとき魏の大臣である季梁は国外にいたが、これを知ると、いても立ってもいられなくなり急いで帰国し、着替える閑もなく、魏の王に会いに行った。

  そのとき、魏王が趙の国を攻める計画を練っている最中だった。慌てた様子の季梁を見た魏王は不思議がり、「そんな格好で慌てて、わしにどんな急用があるというのか?」と聞く。そこで、季梁は「陛下、先ほど私は帰る途中で不思議なことに出くわしましたので、それを早く陛下にご報告しようとやって参りました」と答えた。これには魏王が興味をもち、どんなことかと聞くと、季梁は、早速次のようなことを話した。「私めは、帰る途中で道を北へ向かっている馬車を見かけたので、その馬車に乗った‘人にどちらへ行かれるのか?’と聞いてみると、その人は‘楚の国に行く’と答えました。驚いた私は‘楚の国は南方にあるのに、何ゆえ北方に向かわれるのか?’と聞きますと、その人は、私の“馬は優れており、どう向かおうと必ず楚の国へと行き着くんですよ‘と気にかける様子もなく答えたのです。不思議に思った私は‘貴殿の馬がいくら優れた馬でも、そちらは楚の国の方向ではありませんぞ’としますと、相手は‘心配に及びません、私は旅につかう金を多く持ち歩いているゆえね’とこたえるのです。私はどうしても納得G行かず、‘いくら多くの金を持ち歩いても、その道は楚の国へ通じてはいませんぞ’と忠告すると、その人は大笑し‘それがどうしました?馬車を操るわたしの腕は確かなのだぞ’と言い放ったのです。陛下、彼は私の忠告を聞かずに馬車に乗ってそのまま北方へ向かってしまったのです。」

  これを聞いた魏王は「この世にそんな愚かな人間がいるものか!」と噴出してしまったが、季梁は「陛下は各諸侯の首領となりたいでありましょう?ならば、まず人々の信頼を得ることが先決だと存じます。しかし陛下は、我が国が趙よりいくらか土地が広く、兵隊がいくらか強いことだけを頼みにして、他国を征服してご自身の威信を高めようとされています。それでは、陛下の目指される目標とは遠くなる一方で、あの馬車に乗る人のように、南方にある楚の国に向かうのに、北方を目指してしまい、結局は楚の国からどんどん離れていってしまいのですよ」と話した。

 季梁がわざと遠回りして自分を説得しようとしていることを魏王はやっと悟った。魏王はこれを聞いてしばらく考え込んだのち、季梁の話には理があると思い、趙を攻める計画を取り消したのである。

 この物語から、「南轅北轍」という成語が生まれたのだ。「轅」とは馬車の梶棒のことで、「轍」とは車輪の残した跡のことである。成語の「南轅北轍」は、本来南に行くべき車が北へと向かってしまうことを意味する。中国では、人々よくこの成語を使って、実際の行動と予定の目標とが正反対になっている状況をいう。

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