唐代の女流詩人~薛涛

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「古典エナジー」、今日は、中国の中唐時代の女流詩人、薛涛の生い立ちやその詩をご紹介します。

 中唐時代とは

 唐の時代はとても長く、300年あまりにわたります。長いので大きく4つに分けられます。初唐(唐の初期)、盛唐(唐の絶頂期)、中唐と晩唐になります。

 長いだけあって、唐の時代には、いろいろな文化が花咲きました。その中で、詩が主な文学様式として栄えました。中唐の文壇では、白居易や、元稹(げんしん)、韓愈、李賀など、有名な詩人が輩出しました。詩風は前の時代よりもバリエーションを持つようになりました。その中で、一人の女流詩人が、その身分と才能によって、大勢の人々に注目されました。その女性は女流詩人薛涛(せつとう)です。

 薛涛の生い立ち

 768に生まれ、831年に63歳で亡くなりました。ちょうど中唐の時代に当たります。父の赴任と共に、蜀、今の四川省の省都、成都に来ました。

 小さいころから詩を作る才能があります。具体的にいいますと、しっかりと韻を踏み、内容や文字数、韻律が整った文を作ることを身に付いたという意味です。

 8歳ごろ、ある日、薛涛は父親と一緒に庭に座っていました。父が青桐を指差して、詩の半分を作りました。「庭除一古桐,聳幹入雲中。」庭には樹齢の長い青桐が一本聳えている。その幹がまっすぐで、雲に刺さるように聳え立っている。さあ、その続きを作ってくれるかなあっと言いました。

 これに、まだ8歳だった薛涛は即座に答えました。「枝迎南北鳥,葉送往来風。」木の枝が伸びて、南や北から飛んできた鳥を迎えているようで、そして、葉っぱが揺れて、風と共に踊っている。枝に葉、南北に往来、鳥に風。さらに、桐のTONGと風のFENGの発音など、しっかりと意味や言葉の表現、韻律が整って、完璧な詩でした。父親は娘の詩を聞いて、こんなに聡明で、しかも美貌な娘がいて、感激すると同時に、女性として、果たして才能があるって、いいことなのかと、少し不安にもなりました。

 その不安が的中して、薛涛の一生は、普通の女性とはだいぶ違うものとなりました。父親が早く亡くなって、母親と暮らすようになり、とても貧乏だったので、16歳の時、ついに芸妓(芸者)になりました。でも、普通の芸妓(芸者)ではなく、歴代の蜀の長官の屋敷に召されて酒宴で接待の仕事をし、そこで詩を詠んだりしていました。作詩の才能が幅広く認められ、蜀の長官韋皐(いこう)が朝廷に上奏文を提出し、この素敵な女性に校書郎という肩書きを授けるよう求めました。しかし、昔からの慣わしに反するため、これは実現できませんでしたが、民間ではこの話が広く知られるようになり、薛涛は「女性校書」と呼ばれていました。

 芸妓として、そして、女流詩人として、当時の名高い詩人たち、たとえば、白居易や元稹、張籍、杜牧、劉禹錫などと詩を作り合ったりしました。その中でも、元稹とは関係が親しかったといいます。

 薛涛の詩

  送友人

 水国蒹葭夜有霜

 月寒山色共蒼蒼

 誰言千里自今夕

 離夢杳如関塞長

 水国の蒹葭(けんか) 夜 霜有り

 月寒く 山色も共に蒼蒼たり

 誰か言う 千里 今夕よりしと

 離夢 杳如として 関塞長(とお)し

 水郷の秋の夜、霜のおりた芦の葉も、寒々と月に照らされている。山々も、みな青の一色です。今宵から千里離れるようになる。いくらあなたのことを思っても、遥かな遠いかなたにいるあなたと、夢で再会することも難しいだろう。

 この詩では、「詩経・蒹葭」の言葉、「蒹葭蒼々」を引用しています。蒹葭は川辺の植物、葦のことです。秋の風物ですので、この詩では、季語にもなっています。秋の送別って、とても寂しそうですね。

 薛涛は特に、このような4句から成る漢詩、「絶句」に長じ、女性が書いたとは思えないほど、さっぽりしたものが多いです。

 薛涛と大詩人元稹とのラブストーリー(詩を兼ねて紹介)

 薛涛は仕事柄で、大勢の詩人と交遊がありましたが、その中で、特に、大詩人、元稹と親しい関係になりました。二人は一目ぼれして恋に落ちたと言い伝えられています。その時、薛涛は38歳になりましたが、元稹は11歳年下の27歳でした。薛涛は当時、詩壇でとても有名になりました。元稹はずっと前からその名を聞いていましたが、なかなか会う機会がありませんでした。

 809年、元稹は四川への出張の際、人に紹介してもらい、ようやく薛涛と会えました。薛涛は芸者生活にとっくに懲り懲りしていて、若くして才能の高い元稹と会い、すっかり惚れ込んで、身をゆだねる気になりました。恋愛中の薛涛はこんな詩を書きました。

 池上双鳥

 双栖緑池上,

 朝暮共飛還。

 更忙将趨日,

 同心蓮葉間。

 この詩はタイトルを含めて、わずか24文字ですが、「二羽の鳥」、「一緒に池に棲む」、「ともに飛んで帰る」、「共に戯れる」など、二人が一緒になるという言葉で、結婚への強い願望を表しています。

 しかし、数ヵ月後、元稹は職務を果たした後、四川を離れ、都である長安に戻りました。その後、二人は文通などをしましたが、もともと年が若い元稹がほかの女性との出会いもあったのでしょうか、二人の縁は切れました。中国文学史にとっては、大文豪と女流詩人であり、芸者である女性との恋は、逸話ではありますが、薛涛個人にとっては、楽しいこともあり悲しいこともある苦い思い出なのではないでしょうか?薛涛は芸者をやめて、普通の身分を取り戻した後も、結婚せず、一人で寂しく暮らし、亡くなりました。

 薛涛便箋

 薛涛はまた詩を書くために、手ごろな大きさの便箋を作ったことで有名です。薛涛が生きていた時代には、紙のサイズが大きくて、詩を書くのにとても不便でした。そこで、薛涛は芙蓉の木の皮を原材料として紙を造り、その中にはさらに芙蓉の花を搾った汁を加えて、濃いピンク色の小さいサイズの紙を作り上げました。詩だけでなくて恋文などを書くのにもよさそうです。その後、民間でもはやるようになり、このような風雅な紙は「薛涛便箋」と呼ばれていました。

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