背水一戦
皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。
私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。
"背水一戦"の日本語訳は、「背水の陣」となります。意味は、絶体絶命の窮地に置き、決死の覚悟で全力を尽くすことです。背後に大河の控える逃げ道のない死地に陣を敷いたことで、兵士たちに決死の覚悟で奮戦させ、活路を開いたという、漢の大将軍・韓信の故事から由来した言葉です。出典は、司馬遷が書いた「史記・淮陰侯列伝」となります。その主人公は、劉邦配下の大将軍、韓信です。
韓信は趙王、歇(あつ)の軍隊を侵攻しようとしています。そのためには、井陘口という細い山道を通過しなければなりません。趙王の策士を務める李左車という者は、趙王の大将軍、陳余にこう語りました。
「井陘口を塞いでおいて、奇襲の兵を派遣し、漢軍の軍需品の車列を分断させてください。そうすると、漢軍は進んで戦うことができず、退却することもできず、供給もなくなる。必ず破れる」と提案しました。
しかし、大将軍の陳余は兵力の優位性に頼り、そのような不意打ちの奇計を用いず、漢軍と正々堂々と対戦することにしました。
韓信はこの情報を知り、大いに喜びました。井陘口に着く前に軍を止めて休憩しました。夜中になると、韓信は将兵たちに夜食軽く食べさせ、勝利したあとには、お腹いっぱいご飯を食べさせると約束しました。また、軽装の騎兵2000人を出発させ、趙軍が軍営を離れると、それをすばやく奪い取り、漢軍の旗を挿すよう指示しました。これと同時に、1万人の軍隊を繰り出し、わざと川を背にして陣を張り、趙軍を誘惑しました。
夜が明けると、韓信は軍を率いて侵攻し始めました。双方の戦いは激戦になりました。しばらくすると、漢軍は負けるふりをし、川辺の軍営に撤退し始めました。それを見ると、興奮した趙軍は全員軍営を離れ、追撃してきました。この時、韓信は「迎撃しろ」と主力部隊に発令しました。韓信の軍は川を背に軍営を構えたので、撤退しても活路がなく、迎撃するしかありませんから、皆決死の覚悟で勇敢に戦うしかありませんでした。趙軍はこんな韓信の軍に勝てず、軍営に戻って立て直そうとしました。しかし、軍営にはすでに漢軍の旗がいっぱい立っています。兵士たちはそれを見て大いに驚き、混乱してあっちこちに逃げようとしました。漢軍はこれを挟み撃ちにし、大きな勝利を収めました。
これは、"背水一戦"「背水の陣」という四字熟語の由来です。人間は窮地に立つ時、大きな力を発揮できますね。
そもそも、韓信は川を背にして、軍営を構えたというのは、兵法に反したものです。兵法では、山や丘は右か背にし、川は前か左にして陣を敷くと書いています。漢軍が勝利を得た後、韓信はこう聞かれました。「この度、川を後ろにして勝ったのは何故ですか」と。韓信は、「兵法には、また『これを必ず死地に陥れるとかえって生きるものであり、これを必ず亡びる地に置けばかえって存するものだ』と書いてあるのではないか!」と答えました。
将校たちはみんな感服しました。兵法を熟知しながらも、臨機応変に対策を講じる。これは将軍だけではなく、私たち普通の人間にとっても、適用できそうですよね。