秦の始皇帝陵と兵馬俑(一)

皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

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秦の始皇帝陵と兵馬俑今日から1987年に世界文化遺産として指定され、また世界八大奇跡のひとつとも言われます。秦の始皇帝陵と兵馬俑は万里の長城などと同じように、中国で初めて指定された世界遺産のひとつとして、中国の文化史上では特に重要な地位を占めています。中国の明・清以後の歴史を偲ぶなら、北京へ;そして、明・清以前の歴史を考察しようと思うなら、西安に行ってください。という話がありますから、西安は実に歴史的雰囲気が濃くていいところです。

 秦の始皇帝陵と兵馬俑はほんとうに世間を驚かせる大きな発見です。特に、秦の始皇帝陵と言いますと、秦の始皇帝の陵墓で、今まで、すでに2000年あまりの歴史を持っています。中国では紀元後の歴史は漢の時代の司馬遷をはじめとする歴史学者たちの努力によって、よりはっきりするようにしました。でも、漢以前の歴史に関する記載は不明なところが多くて、例えば、兵馬俑について、歴史上では文字によるあかしなど何も出てきていません。

 秦の始皇帝は中国の歴史において、今でも非常に重要な人物です。戦国時代の七つの国を統一し、初めて、多民族の封建国家の基礎を作った一方で、過酷な懲役や知識人への加害など過失も多く挙げられます。今日は秦の始皇帝陵と兵馬俑という本題に入る前に、まず、始皇帝の生い立ちやこのテーマとかかわりのある中国の歴史を振り返って見てみたいと思います。

 中国の有史文明は奴隷社会の夏、商、周からなのです。それから、周の末にはいくつかの小さな国に分裂して、春秋戦国時代に入りました。春秋時代はまだまだ比較的平和な時代でしたが、百家争鳴など沢山の思想流派が出てきて、社会も大きく進歩しました。が、戦国時代に入ると、諸侯の力の差とその間の戦争はますます激しくなり、統一が時代の流れとなっています。戦国時代の末期、一番力の強いのは秦でした。始皇帝の名前は渚ー政といい、13歳で諸侯国のひとつである秦の国の王座に付きました。

 秦の始皇帝渚ー政は、中国の歴史上初めて統一した帝国を建立した人物です。伝説によると三人の皇と五人の帝という有能な帝王がいましたから、統一後、渚ー政は自分の功績を自慢に思い、始皇帝と自称しています。始皇帝は全国の度量衡と通貨を統一したり、 家族を諸侯国の王にする元の制度を廃止し、中央から地方の郡、県までの封建的官僚制度を確立したり、全国各地への道路や万里の長城を修築したりするなど、数多くの功績を残し、中国のために新しい局面を切り開きました。始皇帝が立てた治国理念は、二千 年余りが経った今日にも、大きな影響を及ぼしています。一方、始皇帝は膨大な工程を 計画し、国民に過酷な懲役をし、また、国民を愚弄して、書籍を燃やし、知識人を生埋めする「焚書坑儒」という政策をとった張本人でもあるのです。始皇帝37年、すなわち紀元前210年、始皇帝は巡行の途中に病死しました。

 この始皇帝の陵墓は、兵馬俑博物館に行く途中、西安市から30キロほど離れた馬に麗しいと書く驪山のふもとに位置しています。草も木も何も生えていない小山のようです。それはまだ発掘されていないので、見えるのはその小山に似ている「封土」で、すなわち、地下建築を覆う土のことなのです。

 歴史の記載と伝説によりますと、秦の始皇帝陵の地下宮殿はその小山の下にあると言っています。でも、始皇帝本人をめぐる争いと同じように、その陵墓に関しても、謎が満ちています。

 ということで、では、世界遺産リストに指定されたこの秦の始皇帝の陵墓、いったいどのぐらいの大きさなのでしょう。これについて、兵馬俑博物館の李乃夫総工程師に尋ねてきました。「秦の始皇帝陵に対する考古の結果によりますと、陵墓内には、封土の下にある地下宮殿という主要建築のほか、そのまわりに、また内城と外城もあります。主な副葬品は外城以内に埋葬されています。ちなみに、すでに発掘された兵馬俑はこの外城の東北にあり、外城の枠内に含まれていません。以前、始皇帝陵の面積というと、外城以内を指していましたが、現在、さらに東西は15里、南北も15里まで範囲を拡大して、総面積は56.25平方キロに達しています。」と述べました。

 このような広い面積の土地には、兵馬俑を含め、およそ、180もの副葬坑があります。この膨大な工程をするのには、始皇帝はどのぐらいの時間を費やしたのでしょう。これについて、秦の始皇帝陵の段清波考古隊長に教えていただきました。「これについて、史書でははっきり書いていません。司馬遷の『史記』では、「始皇帝が 即位して、まもなく驪山で陵墓の建設をはじめた」と言っていますが、始皇帝は37年が経って亡くなりましたから、少なくとも37年間ぐらいありますね。そして始皇帝が死ん だあと、その息子である秦二世は父親を埋葬するのに、1年あまりかかりました。すなわち、始皇帝陵の建設期間はおよそ38年間もあると思います。」と語りました。

 偉大な功績を残した秦の始皇帝が38年間も費やして建造した陵墓、いったいどんな驚きと感動を与えてくれるのでしょうか。

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