中国茶の歴史

中国茶の歴史

By whenis , 20 8月, 2016

1964年、江蘇省丹徒県に生まれる。本名は劉勇。1981年、上海華東師範大学中文系に入学。卒業後、大学に残って教鞭を執り、同時に小説の創作を始めました。80年代後半から90年代半ばにかけて活躍した作家たちとともに「先鋒派」と呼ばれます。また、その作品は物語展開が難解であることや、文体、そして垣間見られる価値観が奇抜かつ斬新であることから「先鋒小説」などと呼ばれています。格非は1986 年、22歳の若さで登場した「先鋒派」の一人で、実験小説的な技法を駆使して数々の話題作を発表しました。代表作「迷舟」「褐色鳥群」など。邦訳には、桑島道夫訳「迷い舟」や『時間を渡る鳥たち』があります。 

小説は妻の不倫の波紋を追う形で繰り広げられます。職業病で美しい顔を失う妻。不倫による妊娠で、生まれた子供の顔に浮き出るかも知れぬ他人の顔。その不安。この二つの顔もブランコの動きに似ており、一方が消えると一方が現れてきます。しかも最後には、その不幸な顔がすべてふっと消えてしまいます。これもまたブランコが上がりきったときにふっと止まるあの動作の暗示であるといえないでしょうか。 

By whenis , 19 8月, 2016

鉄凝は中国の現代女流作家です。1957年に画家の父鉄揚と声楽家の母徐志英の長女として北京に生まれました。1975年1月に保定市第11中学を卒業。 6月、保定地区博野県の人民公社の農民になりました。1979年に保定に戻り、地区の文芸誌「花山」で小説の編集担当となりました。1984年、河北省文 聯所属の専業作家となり、現在は中国作家協会理事、河北省文聯副主席を勤めています。また、2006年11月12日に彼女は中国作家協会の第三代主席に当 選しました。新中国成立以来、女性作家が作家協会の主席になったのはこれが初めです。  

主な作品は、「おお、香雪『哦,香雪』」、「六月の話題『六月的話題』」、「赤い服の少女『没有鈕扣的紅襯衫』」、「麦積み」、「棉積み『棉花?』」(河北大地の麦・棉・草などを大切にする人間の有り様を追求した、鉄凝の農村物中篇小説集)、長編小説「バラの門『玫瑰門』」、「雨のない街『無雨之城』」、「水浴する女たち『大浴女』」(都市生活をテーマに、女性の成長過程における生理的、心理的変化を描いた作品)などがあります。 

By whenis , 18 8月, 2016

張潔は現代中国では数少ない、日常生活以外に強い関心をもつことのできる女性作家の1人です。彼女の思索や苦しみ、デリケートさがさまざまな趣に彩られています。『無字』は、張潔が何年も企画・構想を練って出版した最新作です。80万字の力作で、3部構成。女性作家・呉為の一生における感情のプロセスを描いています。呉為と最初の夫とのやむをえない結婚、私生児となった娘との確執、苦しい生活のなかで母親と支えあう姿、後半生における2番目の夫との驚くような出会いと別れ……。小説は「無字」というタイトルで、女性の結婚に関する感情の物語をテーマとして、社会の大変革や中国社会100年の激しい変化を表現しています。この小説は、2005年に中国文学の最高の栄誉である「茅盾文学賞」を受賞しました。これは、中国文学界の認識と、中国の読者の好みが一致したことを示しているとされます。

彼女の代表作の一つ、「世界上最疼我的那个人去了」(世界で一番私を可愛がってくれたあの人が去った)という小説のあらすじを紹介します。 

By whenis , 17 8月, 2016

汪曾祺は(1920-1997)中国の「新筆記小説」の作家です。

1920年、江蘇省高郵県生まれ。西南聯合大学中国文学部卒業。大学時代には、著名な作家、沈従文に師事し、1940年には、初めて作品を発表しました。かつては昆明、上海で中学校の教師をしていたこともあります。その後、北京市文聯、中国民間文芸研究会で仕事をし、「説説唱唱」や「民間文学」の編集に携わりました。

そして1962年から、北京京劇院で劇作家を務めました。彼が書くもののほとんどは短編小説です。彼は、短編小説という形式がとても気に入っていて、今のところ、長編や中編の小説は発表したことがありません。また散文や評論(文学や戯曲、民間文学に関するもの)も書きます。

若いころには詩を書いたこともあります。しかし京劇の台本を書くのが彼の本職です。中国古代作家の中で、彼は明代の帰有光が好きで、中国現代作家の中では、魯迅と沈従文の影響を深く受けています。

小説の創作理念について、彼は次のように述べています。

「私が小説の中で描く人物は、一般の人である。ほとんどは、私のよく知っている人である。英雄を書いた小説もあるが、私はその英雄を普通の一人の人間として描いた。私はごく普通の人の身の上に、人間の詩趣や美しさが表れるものと思っている。

By whenis , 15 8月, 2016

海岩は中国の現代作家です。1954年北京に生まれ。「刑事もの」を得意しています。中国都市部では、「海岩の名を知らぬものはいない」というほどの人気作家です。1985年から2006年まで、10篇の長編小説を発表し、いずれもドラマ化されました。小説・ドラマともに大ヒットしており、中国大陸の作家としては、トップクラスのヒットメーカーといえます。ところが、実は彼の本業は"ホテル経営"で、小説はあくまで副業。仕事が終わった夜中などに作品を書いているそうです。

彼の作品がなぜそれほど人気があるのか?理由の一つに、その多彩な経歴が生み出した「リアリティの高さ」にあります。 

By whenis , 14 8月, 2016

曾国藩(1811ー1872)は、中国歴史上最も影響力のある人物の一人です。彼は湖南省のある辺鄙な村から読書人の身分で上京し、科挙の試験に合格した後、官吏として採用され、37歳の若さで正2位までに出世しました。

1851年、洪秀全・楊秀清らが蜂起し、1853年には南京を攻めて政権を作りました。「土地の平均化」や「男女の平等」など民主的権利を求めたこの「太平天国蜂起」は中国史上最大の農民革命政権であると言われています。 曾国藩はこの蜂起を鎮圧するため、「湘軍」を創設して十数年かけてやっと「太平天国」を静めました。清王朝の天下を守るため、「両江総督」(今の江蘇、安徽、江西省)、「直隷総督」(今の河北省、天津市及び内蒙古自治区の一部分)などを歴任して、正1位に上りました。

曾国藩の時代は清王朝が繁栄から衰弱へと向かっている時期でした。「同治中興」という局面の中の曾国藩はこの過渡期の核心的な人物で、政治や軍事、文化、経済などの多くの面で大きな影響を及ぼし、その影響力が今日でも続けています。そのため、彼は中国近代史上最も議論されている人物にもなっています。

By whenis , 13 8月, 2016

侯宝林は、1917年天津で生まれた中国漫才史上の巨匠です。

実家は暮らしに困っていたため、四歳の時に彼は叔父さんに連れられて、北京の侯家に引き取られました。継父は貝勒の屋敷でコックをしていましたが、貧乏な家でした。このため、侯宝林は幼い頃から、生活の厳しさを十分味わっていました。1929年、十一歳の侯宝林は閻沢甫先生の弟子になり、京劇の勉強を始めました。十二歳の時、漫才に興味を抱いていた侯宝林は、常宝臣先生、朱闊泉先生の弟子になって、漫才の勉強をしながら、北京の天橋や鼓楼の辺りの露店で漫才の公演をしていました。当時、伝統的に、伝統演劇の「トリ」をとるのは「太鼓」と決まっていましたが、努力の末、侯宝林の漫才はやっと伝統演劇の「トリ」をとることができるようになり、漫才界にも大いに面目を施したということです。その後、侯宝林は同じ漫才師ー郭啓儒とパートナーになり、当時の漫才の俗っぽさを排し、素朴ながら雅びな趣きのあるスタイルで評判となりました。侯宝林は伝統漫才を演じる一方、現実生活を反映する新しい漫才を数多く創作しました。

By whenis , 3 7月, 2016

二胡の曲と言えば、沢山の人にとって、すぐに思い出されるのは「二泉映月」に違いないでしょう。けれど、どれくらいの人がこの名曲の作者が誰かということを知っていますか、そして、この人は一体どんな環境で「二泉映月」を創作したのでしょうか。

では、ここで、この作者についてお話しましょう。

阿炳、元名は華彦鈞、1893年江蘇省無錫で生まれた民間音楽家です。父親の華清和は町中にある「三清殿道観雷尊殿」の主な道士であり、道教の音楽が得意でした。阿炳(華彦鈞)の幼い頃に、母親が死に、叔母さんに育てられて、八歳から父のもとで小道士になりました。私塾で三年ぐらい勉強し、父に鼓、笛、二胡や琵琶などの楽器を教わり、12歳で色々な楽器ができて、しょっちゅう道観のイベントに参加させられました。彼は骨身を惜しまずに広範な民間音楽のメロディーを摂取し、道教音楽の枠を超えて、十八歳の時無錫道教音楽界で「演奏名手」と呼ばれていました。

By whenis , 19 7月, 2009
中国ではお茶を飲む歴史は四千年余り前を遡ることができる。お茶は中国人の日常生活に欠かせないものである。中国では昔から薪、米、油、塩、醤油、酢、お茶は日常生活に欠かせないものとされている。お茶は人々の生活に重要な位置を占めている。また、中国人はお茶でお客さんを招待する習慣もある。お客さんが来ると、まずいい香りをするお茶を立て、飲みならが話をする。これは愉快なことだ。
話によると、紀元280年前、中国の南方には呉という小さな国がある。国王は大臣を宴会に招待する時、よくお酒を酔っ払うまで飲ませた。大臣の中に、酒に弱い韦昭という人がいたが、国王は酒の変わりに彼にお茶を飲ませたのだ。それで文人墨客の間にお茶で客を招待することがはやった。唐の時代になると、お茶を飲む習慣が定着するようになった。茶を飲む習慣は仏教ともかかわりがあるそうだ。紀元713から741年間の間、寺院では、和尚さんと信者達は座禅する時、よく眠くなったのだ。これを見て、1人の年長の和尚さんは彼らにお茶を飲ませた。すると皆が元気がでたのだ。この方法はまもなく、各地に広がった。これと同時に金持ちの家では、専門的にお茶を飲む茶室が設けられた。
By whenis , 9 11月, 2008

清の時代(1725年、18世紀)、福建省安渓の西坪に住んでいた茶農魏蔭さんは、観音様にとても信仰が厚く、毎日、朝、昼、晩、一日も欠かさずお茶を観音様に捧げていました。そんな忠実な魏蔭さんに、ある日奇跡が起きたのです! ?BR> ある夜、魏蔭さんは山の奥に何かを探しに行き、山の岩壁で少し休憩していたところ、涼しい風が吹いてきて、何だか蘭のようなよい香りが鼻に届いて来ました。魏蔭さんは風の方向に沿って香りを探しに行きました。すると、山の岩壁に蘭の香りを放っている茶の樹があるではありませんか!魏蔭さんはその樹に魅了され、手に取ると同時に足が滑り、何と谷に落ちてしまいそうに・・・・!その時、夢から目が醒めました!

翌日、彼はその茶の樹を探しに行く決意をし、何と、夢の通り山の奥の岩壁で蘭の香りを放った茶樹を発見しました!その樹を持ち帰り、精いっぱい育てました。そして、茶樹から採れた茶葉で魏蔭さんは自分の熟練の技術で新しいお茶を作りました。仕上げたお茶の香りは蘭の香りように、またどっしりと重い鉄のような深み、外観は綺麗な発色でまるで観音様を見ているように思えたとか。魏蔭さんは観音様に感謝の気持ちを込めて、「鉄観音」の名前をつけたそうです。