中国歴史上の最初の王朝ーー夏
皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。
私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。
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Submitted by whenis on 日, 06/07/2009 - 19:54
夏は中国歴史上の最初の王朝である。それは紀元前21世紀から紀元前16世紀にわたり継続し、14の世紀と17人の王で、約500年間存続していた。その統治の中心エリアは現在の山西省南部と河南省西部にある。
夏王朝の創設者・大禹は水を治め、民を安定させた歴史的英雄人物である。長年氾濫して水害を起している黄河の治水に成功し、部族民から慕われ、最終的に夏の時代を築いた。夏の時代の創立は、長い原始社会が私有制社会にとって変わるこを意味し、中国はそれ以降、奴隷社会に入った。
夏王朝の末期、王室の政治が乱れ、階級矛盾が日増しに鋭くなり、とりわけ夏の最後の国王・夏桀は即位後、改革の気概がなく、贅沢三昧でみだらで、節度のない生活を送っていた。彼はくる日もくる日も民の困苦を顧みず、一日中、自分の気に入ったお妃と共に酒を飲んで享楽に耽っていた。この時、諸侯国の一つである「商」が機に乗じて、夏桀を討伐し、最終的に夏桀の軍隊をやぶった。桀が逃げ出した後、南巣で死亡し、夏の王朝が滅びた。
今日まで伝わってきた夏王朝の史料はたいへん乏しかったため、歴史上、夏の時代が存在したかどうかは、今、学術界で議論が分れている。しかし、中国の有名な史書、『史記・夏本紀』には夏王朝の系図が明確に記されていた。考古学者は考古学手段で夏王朝の物質文化遺跡を見つけ、夏王朝の歴史を回復しようとしている。1959年から、中国の考古学界では「夏の遺跡」の調査が始まり、夏の文化の探索の幕が開いた。現在、大多数の学者は、河南省偃師二里頭の遺跡で命名された「二里頭文化」が夏文化を研究する主な対象だと見ている。この文化遺跡の存在していた期間は、紀元前1900年前後にあると推定されており、夏の時代範囲内にあるとされている。遺跡は夏の文化であるという直接的な証拠はまだ確認されていないが、その提供された豊富な考古学史料は夏王朝に関する研究を強力に推し進めた。
二里頭文化遺跡で出土された生産道具は依然と石器がメインで、骨や角、ドブガイで作った器も使われていた。一部の家屋の敷地、灰の跡、古墳の壁には木で作った耕具で土を掘った跡が残されている。当時の労働人民はこれらの比較的原始的な道具を使って、彼らの勤勉さと知恵を発揮し、水を収め、土をならし、農業生産を発展させていた様子が伺われる。現在まで、夏王朝の遺跡からはまだそれほど大きい青銅器は見つかっていないものの、青銅で鋳造された刀、錐、手斧、鑿、鏃、鉾、爵などの道具や、武器、容器があり、それと同時に、銅を鋳造していた遺跡があり、焼き物の鋳型、銅のくす、るつぼの残片も出土された。この他、大量の技術レベルの高い玉の工芸品や、トルコ石のちりばめた装飾品、磬などの楽器も出土されいる。手工業の制作技術と内部の分業はいずれもより大きな進歩があった。
古文書の記載において、最も注目されるべきものは夏の時代の暦である。『大戴礼記』に保存されている「夏小正」は、現存の「夏暦」に関する重要な文献である。その内、人々は既に北斗星のひしゃくの指す方位で月を確定していたことが分り、これが中国最古の暦である。夏暦は12ヶ月の順序に従い、毎月の星回り、気象、物の現象及びその従事すべき農業とまつりごとをそれぞれ記述している。その暦は、一定程度、夏王朝の農業生産の発展レベルを反映しており、中国最古の比較的珍しい科学知識を保存している。
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