陳独秀ー思想家、中国共産党の創設者
皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。
私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。
陳独秀(1879ー1942)は安徽省懐寧県の出身で、思想家、中国共産党の創設者です。23歳の時、反清朝宣伝を行ったことで日本に亡命しました。東京高等師範学校、早稲田大学などで学んだことがあります。1906年、同盟会会員となり、帰国後、上海や安慶(現在の安徽省にある)などで口語の新聞を発行し、辛亥革命にも参加しましたが、反袁世凱闘争の最中、再度日本へ亡命しました。
国に戻った後、1915年上海で「青年雑誌」(翌年「新青年」と改称)を創刊し、「新青年」の発刊のことば《敬告青年》の中で、「民主」と「科学」のスローガンを掲げ、これらを汽船の両輪に例えました。彼は儒教批判・文学革命を説き「新文化運動」の旗手となり,青年学生に大きな影響を与えました。1917年初め、陳独秀は北京大学文科学長に就任し、編集部もこれに伴って北京に移り、さらに組織も改造、拡大されました。そのメンバーは、陳独秀、胡適、李大釗、魯迅、銭玄同、劉半農、周作人、沈尹黙、呉虞、高一涵、沈兼士らです。
1919年の五四運動では、李大釗と共に指導的役割を果たしました。軍閥政府によって一時逮捕されましたが、出獄後、上海に出てマルクス主義の研究と紹介に努めました。
1919年上海で共産党の創設に着手し,1921年の創立大会では総書記に選ばれ,その後党の最高指導者となりました。国共合作以後はコミンテルンの指導により,右傾化する国民党との提携維持につとめたため,1927年右翼日和見主義者と批判され,1929年トロッキストとして党から除名されました。1932年国民党に逮捕され,1937年に釈放され、1942年四川省江津で63歳で病死しました。