傅斯年ー中国近代史上の歴史・言語学者及び考古学者

皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

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1928年からずっと中央研究院歴史言語研究所の所長を勤め、研究所の出版物「歴史言語研究所集刊」を創刊、その編集長を兼任しました。1929年の春、歴史言語研究所は南の広州から北京に移り、傅斯年はまた、北京大学の教授を兼任しました。1932年、胡適が社長であった独立評論社に参加し、「独立評論」で蒋介石政権を擁護し、共産党に反対する政治文章を発表しました。抗日戦争勃発後、国民参政会の参政員を担当すると共に、西南連合大学の教授を兼任しました。その時期、彼は抗日戦争を支持し、国民党官僚の腐敗を強く非難していました。抗日戦争勝利後の1948年、南京国民政府の立法委員に選ばれました。1949年1月、歴史言語研究所が台北に移ったのに伴い、傅斯年もそこへ移住、台湾大学の学長を兼任しました。

 傅斯年は政治面で蒋介石政権を擁護、中国共産党に反対し、また、学術面では、純客観的な科学研究を主張しています。

 1950年12月台北で、54歳で亡くなりました。

傅斯年(1896ー1950)は山東省聊城の生まれ。中国近代史上の歴史・言語学者及び考古学者です。

 1909年、天津府立中学校に入り、1916年、北京大学に入学。北京大学で民主と科学の新しい思潮の影響を受けて、1918年、羅家倫とともに、「新潮社」を創設しその後、月刊「新潮」を創刊しました。新文化を提唱する彼は、北京大学学生会のリーダーとなりました。「五・四運動」が勃発した時、そのデモ行進を指揮する責任者でした。1919年、大学卒業後、ロンドン大学研究院やベルリン大学哲学研究院に留学し、心理学、生理学、数学、物理学などを専攻しました。1926年に帰国し、翌年、広州中山大学の教授となりました。

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