謝氷心は中国近代の女流作家

皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

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1913年、謝氷心は家族と共に北京に移り、1914年に教会の学校である北京貝満女子中学校に入り、1918年に協和女子大学の理科に進学しました。彼女が文壇に入ったのは「五・四運動」以降のことです。その後、相次いで「燕大季刊」・「生活」・「小説月報」などの雑誌で社会問題を反映した120余りの文章を発表しました。文学学士の学位を獲得した後、アメリカに留学。アメリカ留学期間中に、彼女は自分のアメリカでの見聞を「小さな読者へ」という散文に書きつづけ、また中国国内に寄せました。こうした文章が発表された後、国内の児童に大いに喜ばれました。卒業後に帰国し、相次いで燕京大学や清華大学、北京女子文理学院で教鞭を執りました。抗日戦争勃発後、謝氷心は昆明や重慶などの大学の教師となりました。1952年と1955年に、謝氷心は訪問団を率いてインドへ赴き、両国国民の友好関係を増進しました。

謝氷心は女流作家であると同時に、翻訳者でもあります。1955年ー1965年までの10年間に彼女にとって、翻訳の最高の時期です。この期間、謝氷心は8カ国の50余りの作品を翻訳しました。晩年には、夫の呉文藻と共に、「世界史」と「世界史要綱」の翻訳に参与しました。

謝氷心(1900ー1999)は中国近代の女流作家です。

謝氷心は1900年、福建省福州の愛国思想の海軍軍官の家に生まれました。一家は一時、山東省の煙台に出ましたが、辛亥革命勃発前に、謝氷心の父親は海軍学校の校長を辞め、ふるさとに戻りました。謝氷心は幼い頃、学校に通ったことはなく、塾の傍聴生として勉強していました。7歳の時には「三国演義」、「西遊記」、「水滸伝」などを読み始めました。 

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