中国宗教はなぜ、キリスト教のような神はいませんか?
皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。
私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。
中国にはキリスト教のような神はいません。その神のかわりに、聖人というものを崇拝します。聖人とは何でしょうか?古代の聖人とは、人間であり、しかもおもに「治水」に成功した人たちなのです。人間の力をもってすれば、どんなことでもできる。この人間の力によせる信仰が、中国で人間至上主義を生みました。
しかし、エジプト、メソポタミア、インダスには多神教がありますように中国にも多くの神はいます。それが一つの体系を取れていないから、いないと感じるのです。 伏犠・女禍は中国の創造神ですが、これは南方の苗族の神だといわれます。中国の創造神が黄河流域の中原ではなく、苗族に伝わる神というのは中国の起源が長江であるとされる大きな理由のひとつとなっていますが、中国のスケールの大きさによるためだと思います。
中国の国土は、ヨーロッパや中東の数ヶ国を合わせた面積にあたります。黄河流域以外にも数々の民族が住み、それぞれの文化を持っていましたが、それが「中国」の名のもとに集まってひとつの国家となりました。中国の神話はあらゆる地方の複合されたものになったのです。そのため中国の神話には体系だったものがないといわれます。これこそ複数の神話が合わさった結果だと思うのです。ある神話体系があって、次に別の地方の神話がもたらされると、その統合が起こります。その過程でつじつま合わせや、融合や移動が行われました。歴史で加上説という論がありますが、そのような修正が行われました。そのため人々を恐れさせる偉大な神が出来上がらなかったのではないでしょうか。つまり創造神は創造をした神のみであり、その後に人々を何ら制約することはなく、もはや登場の場はありません。中国の道教は、病気を直る神、雨を降る神、災難を去る神、いろいろ人々の生活と繋がる現実的な「神」があります。これは中国人の根底には「人間至上主義」の考えがあるためです。
中国人の多神論の根源は、いろいろ考えられるけれども、風土のおだやかさということが大きなウエイトをもっていると思います。宗教的民族、とくに一神教を奉じたセム族は、苛酷な風土のなかで生活していました。たとえば砂漠のようなものは、人間の力ではどうにもなりません。これでは神に頼るしかないのです。中国には砂漠はありますが、ゴビ砂漠やタクラマカン砂漠は、中原からはかなり離れており、それを意識することはありませんでした。彼らの生活圏の中で、最も恐ろしかったのは「水」でした。
黄河の水は、ゆたかな沃土をその流域にもたらしてくれますが、いったん氾濫すると、人家や田畑を飲み込んでしまいます。しかしこの黄河も、人間の力ではどうしようもなかったかといえば、砂漠のように処置なしというほどひどくはありませんでした。なんとかすれば、水の害は防げたのです。自然が人間の力でどうにかなるものだったから、神様を頼らずに、人間の力を信じるというふうになったのでしょう。