中国茶の歴史

皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

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中国茶の歴史

張潔は中国の現代女流作家

張潔は現代中国では数少ない、日常生活以外に強い関心をもつことのできる女性作家の1人です。彼女の思索や苦しみ、デリケートさがさまざまな趣に彩られています。『無字』は、張潔が何年も企画・構想を練って出版した最新作です。80万字の力作で、3部構成。女性作家・呉為の一生における感情のプロセスを描いています。呉為と最初の夫とのやむをえない結婚、私生児となった娘との確執、苦しい生活のなかで母親と支えあう姿、後半生における2番目の夫との驚くような出会いと別れ……。小説は「無字」というタイトルで、女性の結婚に関する感情の物語をテーマとして、社会の大変革や中国社会100年の激しい変化を表現しています。この小説は、2005年に中国文学の最高の栄誉である「茅盾文学賞」を受賞しました。これは、中国文学界の認識と、中国の読者の好みが一致したことを示しているとされます。

彼女の代表作の一つ、「世界上最疼我的那个人去了」(世界で一番私を可愛がってくれたあの人が去った)という小説のあらすじを紹介します。 

汪曾祺 中国の「新筆記小説」の作家

汪曾祺は(1920-1997)中国の「新筆記小説」の作家です。

1920年、江蘇省高郵県生まれ。西南聯合大学中国文学部卒業。大学時代には、著名な作家、沈従文に師事し、1940年には、初めて作品を発表しました。かつては昆明、上海で中学校の教師をしていたこともあります。その後、北京市文聯、中国民間文芸研究会で仕事をし、「説説唱唱」や「民間文学」の編集に携わりました。

そして1962年から、北京京劇院で劇作家を務めました。彼が書くもののほとんどは短編小説です。彼は、短編小説という形式がとても気に入っていて、今のところ、長編や中編の小説は発表したことがありません。また散文や評論(文学や戯曲、民間文学に関するもの)も書きます。

若いころには詩を書いたこともあります。しかし京劇の台本を書くのが彼の本職です。中国古代作家の中で、彼は明代の帰有光が好きで、中国現代作家の中では、魯迅と沈従文の影響を深く受けています。

小説の創作理念について、彼は次のように述べています。

「私が小説の中で描く人物は、一般の人である。ほとんどは、私のよく知っている人である。英雄を書いた小説もあるが、私はその英雄を普通の一人の人間として描いた。私はごく普通の人の身の上に、人間の詩趣や美しさが表れるものと思っている。

海岩 彼の一場風花雪月的事

海岩は中国の現代作家です。1954年北京に生まれ。「刑事もの」を得意しています。中国都市部では、「海岩の名を知らぬものはいない」というほどの人気作家です。1985年から2006年まで、10篇の長編小説を発表し、いずれもドラマ化されました。小説・ドラマともに大ヒットしており、中国大陸の作家としては、トップクラスのヒットメーカーといえます。ところが、実は彼の本業は"ホテル経営"で、小説はあくまで副業。仕事が終わった夜中などに作品を書いているそうです。

彼の作品がなぜそれほど人気があるのか?理由の一つに、その多彩な経歴が生み出した「リアリティの高さ」にあります。 

曾国藩

曾国藩(1811ー1872)は、中国歴史上最も影響力のある人物の一人です。彼は湖南省のある辺鄙な村から読書人の身分で上京し、科挙の試験に合格した後、官吏として採用され、37歳の若さで正2位までに出世しました。

1851年、洪秀全・楊秀清らが蜂起し、1853年には南京を攻めて政権を作りました。「土地の平均化」や「男女の平等」など民主的権利を求めたこの「太平天国蜂起」は中国史上最大の農民革命政権であると言われています。 曾国藩はこの蜂起を鎮圧するため、「湘軍」を創設して十数年かけてやっと「太平天国」を静めました。清王朝の天下を守るため、「両江総督」(今の江蘇、安徽、江西省)、「直隷総督」(今の河北省、天津市及び内蒙古自治区の一部分)などを歴任して、正1位に上りました。

曾国藩の時代は清王朝が繁栄から衰弱へと向かっている時期でした。「同治中興」という局面の中の曾国藩はこの過渡期の核心的な人物で、政治や軍事、文化、経済などの多くの面で大きな影響を及ぼし、その影響力が今日でも続けています。そのため、彼は中国近代史上最も議論されている人物にもなっています。

侯宝林ー巨匠

侯宝林は、1917年天津で生まれた中国漫才史上の巨匠です。

実家は暮らしに困っていたため、四歳の時に彼は叔父さんに連れられて、北京の侯家に引き取られました。継父は貝勒の屋敷でコックをしていましたが、貧乏な家でした。このため、侯宝林は幼い頃から、生活の厳しさを十分味わっていました。1929年、十一歳の侯宝林は閻沢甫先生の弟子になり、京劇の勉強を始めました。十二歳の時、漫才に興味を抱いていた侯宝林は、常宝臣先生、朱闊泉先生の弟子になって、漫才の勉強をしながら、北京の天橋や鼓楼の辺りの露店で漫才の公演をしていました。当時、伝統的に、伝統演劇の「トリ」をとるのは「太鼓」と決まっていましたが、努力の末、侯宝林の漫才はやっと伝統演劇の「トリ」をとることができるようになり、漫才界にも大いに面目を施したということです。その後、侯宝林は同じ漫才師ー郭啓儒とパートナーになり、当時の漫才の俗っぽさを排し、素朴ながら雅びな趣きのあるスタイルで評判となりました。侯宝林は伝統漫才を演じる一方、現実生活を反映する新しい漫才を数多く創作しました。

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