中国茶の歴史

皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

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中国茶の歴史

二十四史

二十四史は、清の乾隆帝によって定められた中国の王朝の正史24書のことである。伝説上の帝王「黄帝」から明滅亡の1644年までの歴史を含む。
史記 - 司馬遷(前漢)
漢書 - 班固(後漢)
後漢書 - 范曄(宋)
三国志 - 陳寿(西晋)
晋書 - 房玄齢他(唐)
宋書 - 沈約 (南斉)
南斉書 - 蕭子顕 (梁)
梁書 - 姚思廉 (唐)
陳書 - 姚思廉 (唐)
魏書 - 魏収(北斉)
北斉書 - 李百薬(唐)
周書 - 令狐徳棻(唐)
隋書 - 魏徴、長孫無忌(唐)
南史 - 李延寿(唐)
北史 - 李延寿(唐)
旧唐書 - 劉昫他(後晋)
新唐書 - 欧陽修、宋祁(北宋)
旧五代史 - 薛居正他(北宋)
新五代史 - 欧陽修(北宋)
宋史 - トクト(脱脱)他(元)
遼史 - トクト他(元)
金史 - トクト他(元)
元史 - 宋濂他(明)
明史 - 張廷玉他(清)

中欧班列(zhōngōu bānliè)中欧定期貨物列車

「中欧班列」は中国と欧州(ヨーロッパ)を結ぶ定期貨物列車のことです。

 2011年、「中欧班列」の第1便が重慶を出発し、新疆ウイグル自治区のアラ峠を通過し国境を越えました。これは海運、空運に次いで鉄道がユーラシア大陸をつなぐ第3の輸送通路になったことを表しています。その後、「一帯一路」構想を推進する中で、「中欧班列」は速いスピードで発展してきました。2015年3月に中国が公表した「シルクロード経済帯と21世紀海上シルクロードの共同構築を推進するビジョンとアクション」で、「中欧班列」の建設を国家発展の重点にすることが明記されました。2016年6月8日から、中国の鉄道は正式に「中欧班列」の統一ブランドを使うようになりました。現在、40本の「中欧班列」が新疆、内蒙古、東北から国境を越え、中央アジア、ロシア、中・東ヨーロッパ、西ヨーロッパなどに向けて運行しています。浙江省の義烏からロンドンまでの路線が2017年1月に開通し、「中欧班列」はヨーロッパ10ヵ国の15都市で運行されるようになったのです。「レール上の『一帯一路』」とされる「中欧班列」は中国と関係諸国との連結を推し進めています。

人民的名义(rénmín de míngyì) 人民の名義

これは今、放送中のテレビドラマのタイトルです。腐敗取締をテーマにしたもので、ドラマには外国籍の愛人、SWAT(特殊部隊)の出動、うずたかく積まれた大量の札束といったシーンが登場して、視聴者や世間に注目されています。

 専門家は、「この作品は国策を反映したドラマで、中国共産党第19回全国代表大会開催前の時期を選んで放送を開始している。これには、それなりの意味がある」としています。

 作品を手がけた李路監督は「この作品を通して、多くの人に、人としての温かみと正義の力を感じ、腐敗防止のための手本としてほしい」と語っています。

 ドラマの原作は「中国の政治小説第一人者」とされる周梅森の小説。作家本人が脚本を手がけ、最高人民検察院の映像センター、中国共産党江蘇省委員会宣伝部、中央軍事委員会後方支援部映像センター、湖南テレビなどの共同制作です。

老腔(lǎo qiāng)

中国西北地区の古い芸能「皮影(影絵)」を上演する時、その物語の内容を「活動弁士」のように台詞や解説を歌うことから、この地区では影絵劇のことを「老腔戏」と呼ぶ。この「老腔」は中国第1陣の国家レベル無形文化遺産として登録されている。

 今年の「高考(gāo kǎo)」、北京の大学入試試験の作文のテーマは2つあり、1つは「老腔」で、もう1つは「しおり」。これについて、一部保護者は「老腔」は難しすぎると主張するが、しおりのほうが作文を展開するにはもっと難しいような気がする。

陳独秀ー思想家、中国共産党の創設者

陳独秀(1879ー1942)は安徽省懐寧県の出身で、思想家、中国共産党の創設者です。23歳の時、反清朝宣伝を行ったことで日本に亡命しました。東京高等師範学校、早稲田大学などで学んだことがあります。1906年、同盟会会員となり、帰国後、上海や安慶(現在の安徽省にある)などで口語の新聞を発行し、辛亥革命にも参加しましたが、反袁世凱闘争の最中、再度日本へ亡命しました。

国に戻った後、1915年上海で「青年雑誌」(翌年「新青年」と改称)を創刊し、「新青年」の発刊のことば《敬告青年》の中で、「民主」と「科学」のスローガンを掲げ、これらを汽船の両輪に例えました。彼は儒教批判・文学革命を説き「新文化運動」の旗手となり,青年学生に大きな影響を与えました。1917年初め、陳独秀は北京大学文科学長に就任し、編集部もこれに伴って北京に移り、さらに組織も改造、拡大されました。そのメンバーは、陳独秀、胡適、李大釗、魯迅、銭玄同、劉半農、周作人、沈尹黙、呉虞、高一涵、沈兼士らです。

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