皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

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漢方医の基礎的理論

漢方医の基礎的理論は人体の生命活動及び病気変化などの規律をまとめた理論で、それは主に、陰陽、五行、精神の集中力、内臓の様子、経絡などの学説を含み、また、病気の原因、診断法、弁証、予防、療養などの内容を含んでいる。

陰陽は中国古代哲学の範畴に入っている概念である。人間は矛盾という現象を通じて、矛盾という現象から陰陽の概念を作ってきた。また、陰陽二極の消長関係を利用して物事の運動と変化を解釈している。漢方は陰陽の対立と統一の観点を利用して人体の上下、内外などの各器官、そして人体と自然及び社会などの外来の要素との複雑な関係を説明している。陰陽の対立と統一の相対的バランスは、人体の正常活動を維持し保証する基礎であり、陰陽の対立と統一の関係が失調或いはアンバランスしたら、人体の疾病発生をもたらし、生命の正常の活動を影響とされている。

「鴻門の宴」の物語

    中国の古代の統一してはまた分かれ、そしてまた統一するという権力争奪の長い歴史には、弱をもって強に勝ち、智をもって勇に勝つという有名な軍事的故事がたくさんある。

    紀元前221年、中国史上初の統一した封建王朝の秦が打ちたてられた。秦の支配者は悪の限りを尽くし、百姓たちを苦しめたので、住民は落ち着いて暮らすことは出来ず、各地では蜂起が絶えず起こっていた。その多くの蜂起軍のなかで、二つの軍隊が最も強大であった。一つは楚の武将項羽が率いる軍隊と秦の低級官僚だった劉邦が率いる軍隊だった。

    項羽は傲慢で、無謀な人物だが、戦に長け、その威名は天下に鳴り響いていた。一方、劉邦は狡猾な性格だが、人使いがうまかった。秦王朝との戦いで項羽と劉邦は同盟して助け合い、互いに勢力を増していった。そして二人は、先に秦の都咸陽を攻略したものが王と称すると約束したのである。

    紀元前207年、項羽は巨鹿にて秦軍の主力に打ち勝ったが、そのとき、すでに劉邦は秦の都咸陽を落としていた。劉邦は部下の策士の進言を聞き入れ、兵隊を咸陽付近の覇上に駐屯させ、咸陽城には入らなかった。また彼は秦の宮殿、財宝庫などを封じ、咸陽の百姓の慰撫に努めたので、劉邦は寛容で、その軍隊の軍記も厳しいと百姓たちは喜び、その多くが劉邦が王になることを望んでいた。

韓信の股くぐり

    紀元前2世紀の秦王朝は、中国史上初めて統一を成し遂げた封建王朝で、中国の万里の長城はこの時代に造られた。しかし、親子二代の皇帝の暴政により、秦の支配はわずか15年で終わってしまうのだ。秦の末期、各地で農民蜂起が起こり、多くの英雄が現れたが、韓信は中でも名を馳せた軍事的統帥であった。

    韓信は中国古代の著名な武将だが、彼は生まれは貧しく、幼いときに両親を失った。韓信はのちに軍事上で大きな手柄を立てる前は、商いもできず、農民もいやだったことから、貧しく見下げられる暮らしをおくり、いつも腹をすかしていた。ある日、彼は地元の小役人と知り合いになり、この小役人の家へ行っては飯を食わしてもらっていたが、韓信に反感を抱いていた小役人の妻が、食事の時間を繰り上げ、韓信が飯を食いにいったときには、飯はなくなったいたことから、怒った韓信は、この小役人と絶交してしまった。

「赤壁の戦い」の物語

    中国史上には、少数をもって大軍に勝った多くの著名な戦があったが、三国時代の「赤壁の戦い」が、中でも最も民間に広く伝わっている。なぜならこの戦いには多くの興味深い話が含まれているからである。

“四面楚歌”

   大きな困難にぶつかり、周りの不利な状況のすべてはその者の失敗を予言しているかのようなときのことを、中国語では“四面楚歌”という成語で比喩している。

   紀元前202年、中国最初の封建王朝である秦王朝が誕生した。現在の世界文化遺産である中国陜西省の始皇帝の兵馬俑はこの王朝が残した遺跡である。そしてもう一ヶ所の世界文化遺産――万里の長城も、秦王朝に始めて建設されたもだ。

   秦王朝の支配者はひたすら大きな仕事を好み、特に始皇帝は自分のために豪華な王宮や陵墓を造り、膨大な資金を費やしたので、民百姓たちは酷い搾取を受け、民間では蜂起は相次いで起こっていた。その結果、15年後に、秦王朝は滅ぼされ、そのときには項羽と劉邦がそれぞれ率いる二つの勢力が残っていた。

   もとは楚の地出身であり将軍の項羽は、気丈で傲慢な性格の持ち主であり、また戦いに長けていた。一方、劉邦は秦王朝が滅ぶ前には階級の低い官吏であり、狡猾な性格だったが、人使いはうまかった。秦王朝と戦いで、この二人は義兄弟となり、互い助け合っていたが、秦王朝が滅ぶと、二人は反目してしまった。

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