孔子とその高弟(その1)

皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

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孔子には弟子が3000人いるとよく言われます。これはあくまでも大まかな数字で、およそ3500人いるという言い方もあります。2008年の北京オリンピック開会式のアトラクションでは、孔子が3000人の弟子を率いて、諸国を周遊していたシーンが再現されました。役者たちは、竹簡を手にして「朋あり遠方より来たるまた楽しからずや」など、孔子の多くの名言を読みあげました。とても感動的な場面でした。

 孔子の弟子には、優秀な人、即ち、「六芸(りくげい)」(「六芸」とは、六種類の芸です。「礼」は礼儀、モラル。「楽」音楽、詩歌、舞踊。「射」は弓術。矢を射ること。これは人間の心身をともに鍛えるためのものです。次は「御」馬車を操る技術。そして、「書」文字の読み書きから文学です。最後に、「数」、数学、算数です。)に精通する者は72人いました。「72賢人」と言います。さらにその中で、「孔門十哲」、10人の哲学者と呼ばれるトップクラス10人が目立っています。「論語」に載っている孔子との問答でも、よく名前が出てきている学をきわめた逸材です。さらに、「論語」の中で、一番露出の多い3人、いや、言い換えますと、最も目立つ3人の大弟子がいます。

 まず、孔子が一番評価した弟子は、顔回(がんかい)です。字(あざな)は子淵(しえん)といいます。孔子より30歳若く、弟子の中でも、一番の秀才です。顔回は名誉とか出世ということを全く求めず、ひたすら孔子の教えを理解し、実践することを求めました。顔回は一生超貧乏な生活を送っていました。論語にはこんな記述があります。「子曰く、賢(けん)なるかな回(かい)や。一箪(いったん)の食(し)、一瓢(いっぴょう)の飲(いん)、陋巷(ろうこう)に在(あ)り。人はその憂いに堪えず、回はその楽しみを改めず。賢なるかな回や。」これを現代語に訳しますと、孔子が言います、「えらいもんだなあ回は。一椀の飯に一椀の汁で、むさ苦しい路地裏の荒屋(あばらや)に住んでおる。普通の人なら貧乏に堪えられず、愚痴をこぼす所であろうが、回は愚痴一つ云わず楽しそうに暮らしている。大したもんだ回は」と。顔回は栄養失調で、20歳のときに、髪の毛がもう真っ白だったといわれます。孔子からは後継者として期待されていましたけれど、孔子よりも早く亡くなりました。41歳でした。孔子は最愛の弟子に先立たれ、大ショックで「ああ、天われをほろぼせり」と、嘆いて、激しく落胆したということです。

 「論語」には顔回への褒め言葉がいくつか見られます。「哀公問う、弟子孰(たれ)か学(がく)を好むと為す。孔子対(こた)えて曰(のたまわ)く、顔回なる者有り、学を好(この)めり。怒りを遷(うつ)さず、過ちを弐たびせず。不幸短命にして死せり。今や則(すなわ)ち亡(な)し。未だ学を好む者を聞かざるなり。」孔子の出身地である魯の国の君主、哀公が、孔子に尋ねました。「あなたの弟子の中では誰が一番学問が好きですか?」。孔子はこう答えました。「顔回という者がおりまして、学問好きでありました。この者は、腹を立てても八つ当たりすることがなく、同じ過ちを二度と繰り返すこともありませんでした。しかし不幸にも若死にしてしまいまして、今はもうこの世にはおりません。これ以外に学問好きという者はまだ見当たりません。

 また、クラスメートからも評価が高いのです。「論語」の一節です。「子、子貢(しこう)に謂(い)いて曰(のたまわ)く、汝(なんじ)と回と孰(いずれ)か愈(まさ)れる。対(こた)えて曰(いわ)く、賜(し)や何ぞ敢えて回を望まん。回や一を聞いて十を知る。賜や一を聞いて二を知る。子曰(のたまわ)く、如(し)かざるなり。吾(われ)と汝と如(しか)ざるなり。子貢は端木賜(たんぼくし)とも言います。孔子の高弟のもう1人です。孔子がこの子貢に、「お前と顔回とどちらがまさると思うか?」と尋ねました。子貢は、「どうして私ごときが顔回と比肩できましょう。顔回は一を聞いて十を悟りますが、私は一を聞いてせいぜい二を悟る程度ですから」と答えました。孔子は、「まことにそうだなあ。お前だけではない、実は私も顔回には及ばんのだよ」と言いました。

 ほかにも顔回に関する「論語」の記述は多いのですが、ここまでまとめたところでは、顔回がどれほど素敵な人か、そして、孔子が広めようとする人間の品格って、どんなものなのかが少し理解できました。「一を聞いて十を知る」ほどの頭の良さがともかく、八つ当たりをしないというのが難しいと思います。腹が立つことがあっても、その思いを自分と関係のない他人に向けてはいけないということですね。この怒りというものは、私に言わせると、本能的なものだと思います。赤ちゃんと子供の行動をよく観察すれば分かるように、例えば、子供が積み木をやっている。でもなかなかうまくできない。そうすると、挫折感で自分自身に怒っちゃって、半分積み上げたものをめちゃくちゃ崩すことがありますね。これは、モノに対する八つ当たりなんですけど、場合によっては、他人に向けてストレス発散ということもありますね。

 孔子にとっては、顔回のようなすばらしい弟子が塾にいるということは、ほんとうに良かったと思います。今、目の前に、孔子と対話をしている、顔回の姿が浮かびます。痩せていて、地味な格好をしていますが、目がきらきらして、微笑みながら先生の話にうなずき、常に新しいようなアイディアを頭に描いています。そして、孔子も時々顔回を見て、「私が考えている道徳で国を治める理想は、この子が分かってくれている」と思うのでしょう。

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