袁世凱ー軍閥政治家

皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

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1912年、革命側との交渉で、清朝が滅亡すると、孫文の跡を継いで中華民国の第2代臨時大総統に就きました。その地位を元に独裁権力を確立すると、宋教仁を暗殺し、さらに各地の反袁蜂起(第2次革命)を鎮圧して、正式な初代大総統に就きました。

 第1次世界大戦には中立を宣言しましたが、日本の対華21ヶ条要求を受諾。1916年元旦に自ら皇帝の地位に就き、年号を洪憲元年と改元、国号を中華帝国と改めました。

 しかし、雲南省をきっかけに各地で武装蜂起が起こり、列国も帝位を支持しなかったため、3ヶ月で帝位を取り消すに至ります。それからわずか3ヶ月後の6月6日孤立した中で急死、57歳でした。

1901年、直隷総督兼北洋大臣の地位に就き内政の改革に努めました。1908年に戊戌変法失敗の時の怨恨から一旦政界を追われますが、辛亥革命が勃発すると、復帰し革命勢力と交戦しました。

1882年、朝鮮壬午騒乱で大院君を天津へ連れ幽閉するなど早くも能力を発揮、1884年の朝鮮甲申事変も鎮圧しました。その能力を買われ、36歳で新建陸軍の責任者に抜擢されました。後の軍閥の基礎はこのときに生まれたと言われます。天津に近い「小站」で新建陸軍を訓練するため、袁世凱は北洋武備学堂からたくさん優秀な人材を集めました。そのうち、王士珍、馮国璋、段祺瑞は最も有能な部下で、「北洋三傑」とも呼ばれています。   

袁世凱(1859ー1916)は河南省項城の出身で、清朝末期の軍閥政治家です。科挙の試験に2度落ちた後、軍人の道を選び呉長慶門下となります。また、彼は「淮軍」を頼りとして地盤を作ったので、北洋大臣・李鴻章との関係は切っても切れないようで、洋務派に属します。  

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