胡適ー中国現代の文学史家・思想家
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私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。
文学革命の指導者として活躍するかたわら、学者としても信奉するプラグマティズムの方法を学問の各分野に応用し、史学・哲学・文学・民俗学などで先駆者的な役割を果たしました。1918年には「建設的文学革命論」を書いて「国語の文学・文学の国語」を主張し、言語・文字・文体改革の理論を展開しました。このような思考方法は1954年以降の胡適思想批判運動のなかで、「内容が形式を決定する」のを本末転倒して、「形式が内容を決定する」ものとして非難されました。「五四運動」以降は李大釗らの左派と対立し、「国故整理運動」に精力を傾けました。
その後、彼は文学運動から身を引いて、1920年『水滸伝考証』を、1921年『紅楼夢考証』を、1928年『白話文学史』等の実証的な研究を世に問いました。
しかし、1930年代以降は儒教批判の批判精神も薄れ、次第に国民党の文化政策の代弁者としての色彩が濃厚になり、1938年には駐米大使、1942年には行政院最高政治顧問、1946年には北京大学学長となりました。最後に、台湾中央研究院院長・国民政府総統府資政の職をつとめた後、この世を去りました。72歳でした。
胡適(1891ー1962)中国現代の文学史家・思想家。安徽省績渓県生まれ。
上海の梅渓学堂、中国公学などで学び、1910年官費留学生試験に合格して、アメリカのコーネル・コロンビア両大学へ留学。1917年にはコロンビア大学に転校、デューイに師事して教育学を修めました。1917年「新青年」に「文学改良芻議」を寄稿。当時、口語は文章語としての地位を認められておらず、口語で書かれた小説は詩文より一段低いものという偏見が強かったのですが、彼は白話(口語)文学を提唱し、文学革命の口火を切りました。「新青年」は西欧近代文明の思潮を広く紹介し、その徹底した儒教批判は辛亥革命後、なお残存した旧道徳を崩壊させました。