鯀と禹の治水

皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

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  中国では、禹が治水する物語は誰もが知っているが、禹の父である鯀も人々に幸福をもたらした治水の英雄である。

 太古の時代の中国では、二十二年にわたって大水が起き、大地は海となり、五穀は水浸しなり、人々は住まいを無くして生きていけなくなり、また猛獣によく襲われるせいで、人口は激減していった。当時の王である尭はあせり、各部落の首領を集めて相談したのち、鯀に治水をさせることを決めた。

 この命を受けた鯀は、ひどい大水による災いを前に、頭を痛めた挙句、「兵が来れば将でこれを阻み、水が来れば土で塞ぐ」という俗語を思い出したので、村の周りに高い堤を築けば、大水を防ぐことができるのではないかと考えたが、この一面の水を前に、堤を築くのに必要な土や石をどこから手に入れるのかと途方にくれた。そのとき、水中から不思議な亀が現れ、「天の庭には“息壌”というシロモノがあり、それを手に入れて大地に散らせば、息壌が瞬く間に生え、すぐに山となり、堤となるだろう」と教えた。これを聞いた鯀は狂喜し、亀に別れを告げて遥か西方へと旅立った。

 鯀は数え切れぬ困難を乗り越え、つい西方にあるの昆侖山に辿り着いた。彼は天帝に会い、人々を救うため大水を食い止めるのに必要な息壌を分けてくれと願い出たが、なんと拒まれてしまった。そこで鯀は、大水に苦しむ人々を思い、天の庭番が気付かないよう息壌を盗み、急いでふるさとに戻り、かの息壌を散らすと、果たして息壌は瞬く間に成長し、大水がどれだけ増えれば、息壌もそれだけ増え、息壌でできた堤は大水を囲い、水はとうとう溢れなくなった。こうして大水から助けられた人々は狂喜し、また耕作や生産を始めた。

 さて鯀が息壌を盗んだことを知った天帝は、天の軍隊を派遣して息壌を回収させたので、息壌で出来た堤がなくなった途端、またも大水が溢れ出し、畑は水浸しになり、大勢の百姓たちが溺れ死んでしまった。これに尭王は怒り、「鯀がむやみに大水を遮ったので堤がつぶれて、より大きな災いとなった。治水に九年もかかって尚も成功しないので、彼を死刑にすべし!」との命を下した。こうして鯀は羽山に囚われ、三年後に処刑されてしまった。死ぬ間際に、鯀は洪水にいまも苦しんでいる人々を思い、この世を去っていった。

 さて、その二十年後、尭は王の座を舜に譲り、舜は鯀の息子である禹に治水を任せた。そのとき天帝はかの息壌を禹に譲った。そして最初のうちは禹は父と同じ方法で治水した。しかし堤を築いても、外の水が一層勢いを増したので、堤は押し潰されそうになった。そこで何回もの試しの結果、禹は、「水を止めていてばかりではだめだ。止める時は止め、流すべき時は流す」という結論を得た。こうして禹は息壌をかの大亀に負わせ、そのあとについて行き、地勢の低いところの人家を息壌で高くさせると同時に、竜を呼んで河川の通るべき道筋を教えてもらい、河や水路を造り、大水の水を海へと流した出した。

 伝説によれば、禹は神の力で竜門山を割り、黄河の水を崖から流させ、今の竜門峽にし、また竜門峽の下流で、禹は水路を塞ぐための山を幾つ分かに割ったので、河の水は曲がりくねって東海に流れ出るようになったという。こうして、いまの三門峽ができたのだ。その後の長い年月に、竜門峽と三門峽は、その急な水の流れと人を酔わすほどの美しい景色で名を知られるようになった。

禹の治水の物語は他にも多くあり、それによると、禹は新婚四日目に治水のため家を離れ、十三年も苦労し、またその間に三回も家の前を通ったが、一度も家には入らなかったという。あらゆる苦労と困難を乗り越え、つい禹は洪水を治めたことから、河や湖はしかるべく水路にそって水を流し、最後にはすべて東に流れて海に入ったので、人々は安楽に暮らすことができた。

生産力が極めて低い原始社会で人々は全力を尽くして洪水と戦ったが、神話や伝説は、人々の自然の災いに打ち勝つという強い願いを現している。鯀や禹も神話に出てくる英雄で、人々の願いと決意を表している。また、神話の中での鯀と禹の経験や挫折も、人々が洪水と自ら戦ったあと得た経験である。こうして人々は知恵を用いて、「塞ぐことと流すことの両方をつかう」という治水法をついに見つけ出した。そして鯀と禹の治水の伝説や物語も永久に相伝え続けられるのである。

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