鄒忌、斉王に見事に諫言

皆さんこんにちは、「songyun.org中国語教室」というコーナーを始めました。このコーナーでは中国に関する知識や中国語の勉強方法などをご紹介いたしますので、このウェーブサイトを有効にご利用していただき、この中国語教室が皆様のお役にたちますように心より願っています。

私も日々日本語と英語を勉強していきたいと思っておりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

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「古典エナジー」、中国古代の名人やその著書などをご紹介しています。長くて広い時空を超えて、彼らのすばらしい知恵を少し汲み取ろうという企画です。今日も、中国春秋時代の有名人の一人をご紹介します。

 中国の春秋時代、史書『春秋』に由来する時代の区分ですが、紀元前770年~紀元前403年までです。その時には、周王朝が崩壊する中、日本の戦国時代の大名に当たる諸侯が、覇権を争いあいました。そんな中、さまざまな思想がぶつかりあい、一躍有名になった政治家や思想家がたくさんでました。今日ご紹介するのは、政治家の物語です。漢の時代に編纂された史書『戦国策』に記録されています。登場する主人公は、鄒忌(すうき)といいます。

 鄒忌(すうき)は、身長が180センチを超え、目鼻立ちがはっきりし、気品のある美男子です。ある日の朝、鄒忌は服を着て冠を整えた後、しばらく鏡を見ながら、自分の姿を見つめていました。そして、隣にいる妻に尋ねてみました。「私とこの町の北に住んでいる徐公(徐君平)を比べると、どっちが美男子と思うか?」彼の妻は答えました。「あなたはとっても素敵ですわ。徐公はどうみてもあなたに及ばないのよ。」

 町の北に住んでいる徐公は、当時、斉の国で、一番の美男子とされる人物です。鄒忌は自分がそれほどの人物に勝てるのかと、疑っていました。今度は自分の妾(めかけ)に同じ質問をしました。「お前から見て、私と城北の徐公とはどっちが美男子かな?」妾はこう答えました。「ご主人様のほうがずっとおきれいでございます。」

 翌日、お客が鄒忌を訪ねてきました。雑談している時に、鄒忌はやはり同じことを聞きました。「私と徐公を比べると、どっちが美男子と思うか?」お客が言うには、「徐公はもちろんあなたに及びません。」

 その次の日、鄒忌がひそかに美を競った相手、徐公が、彼を訪ねてきました。鄒忌は近くでじっくりと徐公を観察しました。「やはりこんな素敵なお人に自分は及ばないだろう」と思いました。更に、徐公が帰ったあと、また鏡で自分の姿を眺め、「自分はかなわないなあ」と一層感じました。

 夜になって、寝床に着いた鄒忌は、妻や妾、客の答えを回想し、ふと悟りました。「事実は、明らかに自分が徐公にかなわないのに、なぜ3人とも、私の方を評価したのか。よく考えると分かる。妻が私の方が美男子と言ったのは、私のことをひいきしているからだ。妾がそう言ったのは、私を恐れているからだ。そして客は、私に頼みごとがあったからだ。」

 そこで、鄒忌は斉の君主、威王に謁見しました。事の経緯を話した後、更に次のように話しました。「確かに、自分が徐公の容姿にかなわないことはよく知っております。しかし、妻が私のことをひいきし、めかけが私のことを恐れ、客は私に頼みごとがあるので、みんな嘘を言って、私のほうが徐公より美男子としました。現在の斉国は、国土が広く、120の城を持っています。宮殿に住んでおられる妃たちや側近の臣下は、皆、王を愛しています。普通の大臣たちは皆王を恐れています。また、国内のすべての庶民は、王に何かを求めようとしています。そうしますと、王は恐らくかなり周りの者にごまかされているということになりましょう。」

 威王は鄒忌の言葉に納得し、「その通りだ」と言いました。そこで、次のような命令を下しました。「貴族や平民の身分を問わず、私の過ちを面と向かって直接指摘してくれる人に、一等賞を授与する。書面の形で、私に忠告してくれる人に、二等賞を授与する。大勢の人が集まる公共の場所で、私の過ちを議論・指摘し、私の耳に届くものであるならば、三等賞を授与する。」

 この命令が出されると、大勢の大臣が王に諫言をしようと集まり、宮殿前の広場はまるで市場のようににぎやかになりました。数ヵ月すると、たまにはまだ諫言をしようとする人が現れますが、一年後には、諫言しようと思っていた人でも、いさめることが全くなくなり、素晴らしい国になっていました。

 すると、燕や趙、韓、魏といった国がその噂を聞きつけ、斉に朝貢するようになりました。これはいわば、内政を正しく行うことができれば、軍隊を出動させなくても、他国に打ち勝つことができるということです。

 以上、史書『戦国策』に載せられた物語、「鄒忌、斉王に見事に諫言」をご紹介しました。主人公の鄒忌は何者かと言いますと、彼は琴の名人です。ある日、威王が古琴を弾きました。鄒忌はそれを聞くと、古琴のことを例に、どう国を管理すべきかについて述べました。威王はそれに納得しました。それがきっかけとなり、鄒忌は重要な地位に着きました。

 中国の古代では、王が大きな権力を握っているので、王に諫言をしようと思っても、うまくいかず、王の逆鱗に触ることもあります。たとえば、漢の時代に『史記』を編纂した司馬遷と同じように、処刑されたり、ひいては殺されたりする役人が多いのです。人間はだれでも自分を非難するような話を聞きたくないですもんね。だから、鄒忌は自分の身の回りの小さなことで、話をゆっくりとリードし、私でさえもお世辞などを言われて、結局だまされていますが、大きな権力を持つ王は恐らく私以上にごまかされていることから、国民の声に耳を傾けたらどうかと勧めました。先ず、自分を例に出すところがいいですね。

 聞き手の斉威王も中国の歴史で、すばらしい功績を残した君主の一人です。彼にまつわるこんな話があります。威王は即位してから3年間、仕事らしいことをしたことがなく、ひたすら女遊びに浸っていました。そこで、淳于髡(じゅんうこん)という大臣が立ち上がりました。威王がたとえ話が好きという特徴を利用して、「国には大きい鳥がいて、王の庭に止まっている。三年飛ばず、また鳴かない。この鳥が今どうしているかとご存知か」と謎をかけました。すると、威王は「この鳥は今まだ飛ばないけれど、一旦飛ぶと、勢いよく天を飛び回る。鳴かないけれど、一旦鳴くと世の中の人を驚かせるものになる」と答えました。威王の言葉、「不鳴則已、一鳴驚人」何かを始めるなり人を驚かせるような成果を上げることを表す成語は、今でもよく使われています。威王は無能な大臣を免職し、有能な人材を重用することによって、国力を増大させ、百家争鳴と言われる文化の最盛期を迎えました。

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